「手足」があること

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060909/1157773946に関連して。


http://tu-ta.at.webry.info/200609/article_5.html


つるたさんが引用している例を見ていて思ったのだが、ふつう所謂〈健常者〉にとって、「手足」があることは〈自然〉に属する事柄であって、それを殊更自らの優位を際立たせ、相手を貶めるためのリソースとして動員することはないだろう。そこから生成される感情は「かわいそう」*1であったりするかも知れず、勿論、そうした〈同情(憐憫)〉の鈍感さそれ自体が差別的であるとして障碍者側からの批判の対象になるということはあるかも知れない。しかし、面と向かって相手を罵倒するリソースとして使われるということはないだろう。何故なら、そうすることによって、〈健常者〉であることの自然性がダメージを被るからである。しかし、乙武を罵倒する連中にとって、「手足」があることは決してのほほんとした自然性に属することではない。「手足」があることは自らと相手とを隔て、自らの優位を確証する唯一のtraitであるのだ。そのような〈必死さ〉を感じてしまう。こうしたことについては、http://blog.drecom.jp/tactac/archive/1018を参照すべきなのかも知れないが、「手足」があることぐらいしか自慢できるものがないという差別者の側の事情をどう理解すべきなのかという問題に突き当たってしまう。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060824/1156437067で使った論法でいけば、こうした馬鹿者を糾弾すること自体が、世に曖昧に拡散し・自らにも染み着いているだろう差別を贖罪し・隠蔽することに繋がりかねない。それにしても、例の「ミイラ」騒動で岩手大学生の人非人ぶりを糾弾した奴と今回乙武を罵倒した奴が重複していたりして。