見てしまったこと

承前*1

坂東眞砂子さんの「子猫殺し」について、それを批判(非難)した「きっこ」さんへの批判もある*2
勿論、「きっこ」さんによる坂東眞砂子さんへの人格攻撃(否定)に荷担するつもりはない。しかし、私は彼女があのように激昂した根拠のようなものはその後のエントリーを読んで感じることができた。そして、それは生命に対する倫理的な態度ということに関して、より重要な問いを孕んでいるのではないかと思われる。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_18c5.htmlで、彼女は自らの〈猫体験〉について書いている。

ああ‥‥もうダメだ‥‥これ以上は書けないや‥‥。もう10年近く経ってるのに、この子のことを思い出すと、涙が止まらなくなる。最後の1週間、毎日、毎日、病院に行って、どんどん弱ってく姿を見ながら、声をかけること以外、何もできなかった自分が、悔しくてしょうがない。最後は、目を開けてるのに何も見えてなくて、鳴くこともできなくて、ただグッタリと横たわってるだけだった。それなのに、あたしが泣きながら名前を呼ぶと、シッポの先をほんの少しだけ動かして返事をしてくれた。最後の、最後の、ほんの少しだけ残ってた力をふりしぼって、シッポの先を動かして、あたしに、「ちゃんと聞こえてるよ」って返事してくれた。そして、動かなくなった‥‥。

あたしは、少し落ち着いてから、ダンボールの箱をもらって、バスタオルを敷いて、その子を入れて、お家に帰った。そして、玄関を入って、ドアを閉めて、それから、泣いた。泣いても泣いても涙が止まらない。どうしてこんなに涙が出るのか、「涙が枯れる」っていうけど、そんなの嘘だと思った。その子を抱きながら泣き続けてたら、温かくてやわらかかった体が、だんだん冷たく、硬くなって来て、その感触が、ホントに死んだってことをいやおうなく実感させる。それまでは、声を出さずに泣いてたけど、もう、なりふりかまわずに、あたしは、大声を上げて泣き続けた。

という部分だけを引用しておこう。このことから分かるのは、「猫」というのはたんなる可知性のレヴェルにあるものではなく、可感性において迫ってくるものだということだ。換言すれば、彼女にとって、「猫」はたんなる概念とかイメージではなくて、生々しいそのもの性を伴って存在するものなのだ。彼女がこれらのレヴェルの区別に敏感だというのは、東京大空襲と長崎原爆と松尾あつゆきの俳句に言及したhttp://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/08/post_10ee.htmlでも窺うことができる。曰く、

なんか、変な書き方をしちゃったけど、あたしが言いたかったことは、たった1人でも、自分の肉親や知り合いが被害に遭ってると、その事件をすごく身近に感じるけど、そうじゃない場合には、どんなに多くの人たちが被害に遭ってても、「大変だったんだな」とか、「ものすごく悲惨だったんだな」とは思うけど、実感が湧かなくてピンと来ないってことだ。たとえば、インドで満員のバスが谷に落ちて50人亡くなったってニュースを聞けば、大変なことだと思うし、亡くなった人たちやその家族は気の毒だと思うけど、それだけで終わっちゃう。だけど、家の近くで、新聞にも載らないような小さな交通事故があったとしても、その被害者があたしの肉親や知り合いだったら、あたしにとっては、インドのバスの事故よりも、こっちのほうが大きな事件になる。
これはフランソワ・ジュリアン(『道徳を基礎づける』)が注目し、さらに末木文美士氏(『仏教vs.倫理』)も注目している『孟子』に出てくる梁恵王の話を想起させる。供犠のために儀礼の場に引っ立てられていく怯えた牛を目の当たりにしてしまった王は、牛を放し・羊を替わりに供犠に用いるよう命ずる。これはかなり身勝手に感じられる。牛の替わりに殺される羊はどうなんだ? 末木さんも最初はそう感じていた(p.100)。しかし、ジュリアンはいう;

賢者は言う。王が、考える暇もなく、牛に代えて羊を用いることを提案したのは、牛の怯えた様子を「目のあたりにし」たからであって、羊のほうは「目のあたりにし」なかったからです。王は、怖じけづいた一頭を自分の目で見てしまった。その怯えは彼の目の前に不意に出現したので、心の準備をしておくこともできなかったのだ。ところが、もう一方の動物の運命は彼にとって観念にすぎなかった。それは匿名であり、抽象的であって、したがって、効果を一切持たない。目の前で対面しなかったのであり、他者の怯えに開かれ、その後、閉ざすことのできなくなった視線が羊には届かなかったのだ。だからこそ、羊の犠牲は王の心を揺り動かさず、王は、頭から羊を事物と同列に置いたのである(p.21)。
ジュリアン=孟子にとっては、「他の存在(それが動物であっても)と暗黙のうちに関係が生じ、たとえ一瞬でもそれに対面すると、人はそれに無感覚ではいられなくなってしまう」(p.23)という事態こそが、「道徳」すなわち仁の端緒だということになる。それを踏まえ、末木さんはいう;

見なければよかった、ということは僕たちの日常にもしばしばある。でも、すぐに日常が回復できる程度ならいい。そのときには特別の問題もなく「人の間」の秩序に復帰することになる。ところが、あまりにも衝撃が大きすぎたとき、それは公共の言葉に回収できなくなってしまう。アウシュヴィッツを、ヒロシマを、阪神大震災を、九・一一を見てしまった不幸。そのとき、人はもはや無邪気に語ることはできない。語りえないものが、トラウマとして沈殿する(p.101)。
ハンナおばさんの甥っ子としては、末木さんの「公共」云々ということに俄に同調することはできない*3。それはともかくとして、ジュリアン=孟子にとってそれが道徳の端緒であり、末木さんにとってそれが倫理道徳を超えた〈宗教〉の端緒であるという違いはあるにせよ、2つのレヴェルの差異は明らかだろう。これはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060806/1154842237で述べたこととも(私にとっては)繋がっている。生について、一般項として語らせようとする、そのこと自体が既に罠なのであり、また一般項として言明しようという誘惑にも抵抗していかなければならない。「きっこ」さんに戻ると、「目の当たりにしてしまった」レヴェルに拘りながらも、誘惑に抗しきれずに「一般項」のレヴェルにジャンプしてしまったというのが彼女の誤りといえるのではないか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060825/1156475048

*2:例えば、http://d.hatena.ne.jp/lelele/20060822/1156194202http://anotherorphan.com/2006/08/post_369.html

*3:この件を深めるには、自己物語論を参照し、ハンナおばさんとアイザック・ディーネセンとの関係に先ず論及することが必要だろう。