ロックということで、
浅見和彦「ミック・ジャガー、ジョン・レノンと第四インタナショナル」
http://www.jrcl.net/web/frame0384i.html
というテクストを偶々見つける。
ところで、
と九谷さん。
>>>筆者も強調しているように、輸入した「ロック」の理念(「アウトサイド」、「アート」、「エンターテイメント」)を一体化できなかったこともさることながら、それらの理念に対応する状況が日本の社会構造になかったことが大きいかな。「パンク」やってる人たちも普通に豊かな生活してたし・・・。バブルの時代だったし・・・。
http://blog.livedoor.jp/aag42740/archives/50082539.html
一般的に言えば、或る文化が違う土地に移植される場合、その担い手たちの社会階層・階級的背景が違ってくるというのは当然かと思う。外来の、それも最先端とされる文化を受容するためには、それなりの文化資本、さらには経済資本が必要だから。例えば英語力とか。さらには、楽器を買えるかどうかというのが問題である場合もある。日本のヒップ・ホップの場合、ZEEBRAは横井秀樹の孫だし、Verbalはボストンに留学して神学修士を取った人だし。
日本のロックの黎明期には「アート」指標が優勢だったこと。「アウトサイド」指標はフォークが担っており、「エンターテイメント」指標は歌謡曲が担っていた。「ロック」と「歌謡曲」ということだと、いつも思い出すのは、内田裕也の盟友でもある沢田研二。アン・ルイスも自ら「歌謡ロック」ということで開き直っていた。「ロック」と「フォーク」の境界が微妙であるように、「ロック」と「歌謡曲」の境界も微妙なもので、その微妙さに例えば「気絶するほど悩ましい」Charも苛立っていたのかも知れない。
九谷さんのhttp://blog.livedoor.jp/aag42740/archives/50082321.htmlの方の問題だと、重要なのは、(マンハイムがいう意味での)マージナル性じゃないかな。例えば、現代の中国文化は(音楽にしてもアートにしてもファッションにしても)〈老外〉の存在抜きには語り得ないと思う。さらにはABC=American-born Chineseの類の人たち。また、内でありつつ外でもある〈港台同胞〉という存在もあるし。