「分を守らないこと」、或いは役割距離

猿虎さん*1曰く、


 「分を守ること」とは、集列化した個人が、「孤立化」「分子化」を内面化したことによって生まれる道徳にほかならない。だとすると、「分を守らないこと」とは、「分」の外に出ることであり、「孤立化」から離脱することである。つまり、自「分」(アイデンティティー)や身「分」(カテゴリー)の外に出ることは、まさに「公共的」な振る舞いなのであり、それが「政治」なのである。
これはアレンティアンな立場からしても十分に首肯できることである。但し、集列性について、私はIMY的な換骨奪胎に可能性を見出しているということは既に書いたとおり。
さて、「分」というのを社会学ジャーゴンで表現するとすれば、役割ということになるだろう。役割は現実的には役割期待(role expectation*2)及びそれに対する反応=応答として存立している。社会的期待を読んで、それに沿うように反応し、それが反復され習慣化することによって、社会の成員の振る舞いの予期可能性は増大し、自明化される。社会は役割の厖大な体系的集積として説明することが可能であり、その限りでは、役割は社会学の根本概念の一つであるといえよう*3。「分を守らないこと」は取り敢えず、ゴッフマン的な意味におけるよりも寧ろバーガー的な意味における「役割距離(role distance)」といえるだろう。そこでは、極限的には役割(「分」)は唯名論化されてしまう。
ところで、役割に拘る限り、社会学的思考は〈自由〉を、或いはwhatではないwhoを主題化することはできない。「役割距離」において、〈自由〉或いはwhoが垣間見えるといったところだろうか。それよりも根源的には、役割を演じ損ねてしまう可能性、失敗の可能性において、〈自由〉は基礎づけられると言えるかも知れない。「分を守らない」、或いは「役割距離」といっても、それは分を守らないぞ!という主体的決意というか目的意識性において生起するとは限らないからである。それは得てして、「分を守らない」という「分を守る」ということになってしまいがちである。また、そもそもいくら決意したって、それ以前の受動性において「分を守らない」可能性が担保されていない限り、「分を守らない」ことはできない。まあそんなところだ。
さて、公共性について考えていたら、昔四人囃子が「パリ野郎ジャマイカに飛ぶ」(だっけ?)の中で「誰が入ってきてもいいさ/俺たちは歌いつづけるから」と歌っていたことを思い出した。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060501

*2:expectationは取り敢えず「期待」と訳されているが、「予期」と訳すことも可能であり、役割概念においては「期待」と「予期」は不可分的な関係があることは注意されたい。

*3:但し、所謂〈発生社会学〉の立場から言えば、役割は役割行為を可能にする〈やり−とり〉能力に基礎づけられることになる。