http://d.hatena.ne.jp/sava95/20060420#p2
凄いことになっているとは思う。ただ、こういうことはそう目新しくはないだろう。そもそも近代の公教育自体が工業社会の労働者に要請される時間感覚を、例えば毎朝決まった時間に登校するとか、授業時間と休憩時間の反復とかを通じて、身体化するという機能を有していたからだ。支配や管理というのは、身体をターゲットとした場合、究極的には時間の管理、支配・管理する側に都合のいい時間パターン(リズム)を身体に刻み込むことということになるといえよう。近代的な賃労働の場合、支払われる賃金は時間を拘束されることに対する対価であるというのが原則であろう。労働力を売ること、それは時間を売ることである。学校的時間の身体化というのは、自らの時間を譲り渡して拘束されるという労働の予行演習である。
ただ、公平を期せば、子どもの時間や身体的リズムの管理というと、〈右〉っぽく聞こえるけれど、1980年代にこの手のことを主張していたのは、(目に付くところでは)共産党系の研究者や教師が多かったように思う。この手の本は大月国民文庫からけっこう出ている。
ところで、青森県鶴田町の「朝ごはん条例」*1だけれど、『東奥日報』の社説では、「また「なぜ、朝ごはんがパンでは駄目で、米飯でなければならないの」という、素朴な疑問は残る」といっている。(私の場合)朝から米飯なんか食べたら、旅館の朝食みたいで、身体が観光モードになってしまうぞ。