「モデル」としてのスポーツ(菊幸一)

西本祥子「”身体を使わないスポーツ”への反発を考える」『スポーツゴジラ』(スポーツネットワークジャパン)45、pp.24-29、2019


スポーツ社会学者の菊幸一氏*1へのインタヴュー記事。
少し抜書き。


中世のスポーツは暴力性を持っていました。今日のサッカーやラグビーの原型である「モブ・フットボール」などはとくに暴力的で、死人が出ることも珍しくなかったと言われています。4世紀から18世紀まで、ヨーロッパ諸国ではたびたびスポーツ禁止令が出されました。金鵄の対象となったスポーツはフットボール、弓術、狩猟、テニス、剣術などさまざまですが、庶民がこれらのスポーツに熱中することが社会を混乱させ、国王や聖職者など時の権力者の権威や統治を脅かすものと考えられたのです。
しかし、産業革命によって文明化された近代社会において、人々は物事の決着の仕方もそれまでの「力対力」をむき出しにする野蛮で暴力的な決着を望まなくなりました、長い時間をかけて話し合い、決着がつかなければ多数決という穏便な方法を取るようになります。これと同じことが暴力的であったスポーツにも起こります。イギリスのパブリック・スクールでは庶民の暴力的なモブ・フットボールが、手や腕を使ってはならないとするサッカーと、ボールを持っている人が前にボールを投げて進んではならないとするラグビーという近代スポーツに変質します。中世のスポーツとは反対に、暴力のない社会のひとつのモデルとしてこのようなスポーツを承認・受容し、これを経験することによって暴力のない社会を「再生産」しようとしてきたのです。
この「再生産」を担うのが教育としてのスポーツ=スポーツ教育であり、体育でした。人間社会の理想は暴力を根絶することにあります。感情的興奮の存在を認めつつ、他方でこれをいかに抑制しコントロールするかというバランスを模索するようになりました。近代社会においてはその重要なモデルのひとつがスポーツなのです。(pp.27-28)
その一方で、

日本では長らくスポーツを教育の対象としてみてきました。スポーツは、肉体活動、身体運動を通じた教育=体育とほぼ同じものととらえられてきたのです。背景には、兵役や肉体労働に耐えられる健康な身体をもった国民をつくるという時代の要請もありました。一番のポイントは激しいまでの肉体活動、身体活動で、それを通じて健康な身体を養うことができる、だからスポーツは価値があるものなんだという考え方です。教育の側からスポーツにかかわる人たちは肉体活動、身体運動についてものすごく思い入れがありますから、身体を動かさないeスポーツに対しては、「あんなものはスポーツと言えない」という根強い反発があるのは当然のことでしょう。(p.25)