批判よりも汚染を

今日開学するという「全寮制の私立男子校・海陽中等教育学校」の話。
『朝日』の記事*1


生徒はIT端末を持ち、常に居場所を把握される。休日に散髪に出かける時も教職員が引率。防犯カメラが設置され、外からも近づけない……。学校の様子が分かってくると、受け止め方が変わった。市議の一人は「生徒が街を自由に行き来できると思ったが、あそこまで管理されるとは。ちょっと近寄りがたいですね」と漏らす。

 広々と海を一望できる食堂、13万平方メートルのキャンパス、個室、1人1台のパソコンや携帯端末。海陽の生徒はぜいたくな環境が用意される一方で、漫画やオーディオ、ゲーム機器の持ち込みは禁止。参考書、辞書以外の本も10冊以内と制限されている。


 あえて全寮制にして生徒の全生活を管理するのも、英国のパブリックスクールを参考にしただけではない。今の日本で理想の教育を行うには、外部の情報をある程度遮断し、「異空間」を作りだすのが必要と考えているからだ。


 「今の子供たちは塾通いとテレビゲームで、自由な時間を失っている」。JR東海会長で、学園副理事長の葛西敬之氏の持論だ。「自由な空想を刺激する環境は一定の規律の中にある」とも話す。

「英国のパブリックスクール」よりも兵舎を連想させるのはともかくとして、全寮制学校というのは、兵舎や精神病院や難民キャンプとともに、所謂total institutionの典型例ではある。今後、潜り込んで参与観察を行う社会学者の活躍を期待する。君も日本のゴッフマンになれるぞ。
少しでも良識のある人ならば、こういうのは批判的に見るのが当然といえば当然であろう。しかし、ただ批判しているばかりではつまらないのではないか。抑圧あるところには(自然現象として)抵抗が起こるというのは既に常識に属する事柄であろうし、また抑圧こそエクスタシーの源泉であるともいえる。今後湧き起こるであろうエロス&ヴァイオレンスをわくわくどきどきしながら待つというのはどうだろうか。さらにいえば、外部からだと、批判よりも如何に内部を汚染するのかを検討する方が面白いのでは? 『スクール・オヴ・ロック』とか『郭公の巣の上で』を想起するとは私の想像力もあれだな。
俗世から隔絶されたトポスにおいて、猟奇的な殺人事件が起こるというのは、『薔薇の名前』に至る探偵小説の定番であろう。或いは、ポルノグラフィックな想像力*2。私の想像力はやはりそちらの方へ向かってしまう。
以前から思っていたのだが、左翼的な人でも俗世から隔離された〈全寮制学校〉への憧れが強い人がけっこういるのはどうしてなのか。例えば宇沢弘文とか。旧制高校へのノスタルジア? しかし、旧制高校は俗世から隔離されたものではなかった。エリートでも何でもない多くの日本人が全寮制学校を強制的に経験させられたのは戦時中の集団疎開。私の知る限り、それを生徒として経験した世代の多くは、小林信彦にしても山中恒にしてもネガティヴな記憶を持っている筈。どうしてなのか。
ところで、『読売』の記事*3では、「「国際社会では、自分の国のことを知らず、軸足のない人間は尊敬されない」として、古典や日本史も重視する」とあるが、『朝日』の記事にある「参考書、辞書以外の本も10冊以内と制限されている」という状況において、「古典や日本史」の教養が身に着けられるのかというのは素朴な疑問。当然『薔薇の名前』の僧院の如き浩瀚なライブラリーがあるということなのだろうか。それならば、エロス&ヴァイオレンスにはますます期待ができそう。生徒にはまず本を捲るとき指を舐めないことを教えなければならないな。でも、登場人物が元エリート銀行員とか「トヨタ自動車JR東海中部電力など、学校設立の中核になった企業の若手社員」(『読売』からの引用)というのは、ちょっと俗っぽすぎる。

*1:http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000240603300001

*2:日本において(家庭に持ち帰れないので)使い捨て的に消費されるポルノ小説に欠けているのは何よりも高踏性や典雅さだろう。ビンボー人はポルノを書くなというのはここでのテーマからは外れる。

*3:http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20060404us41.htm