Street

“me”という方の「日本のロックといわゆる「応援ソング」が嘘臭いのはなぜか」*1を読む。なんか難しいというか、〈ロッキング・オン〉している文体だな。曰く、「玄関の扉を出るとそこはもう「ストリート」、という環境は現代の日本でも極めて稀で、日本のストリートは、つまり「私」と「街」を直結していない」。また、


日本のロックと、いわゆる「応援ソング」が嘘臭いのはなぜか。それは、そこで歌われている「夢」そのものが嘘臭いからではない。歌の中の私と、夢を繋ぐ道(ストリート)がリアルな形で示されていないところにある。まず夢は努力すればいつか叶うという類の救いようのない誤りがある上に、歌う「私」と「夢」が直結しているかのような認識の誤りがあって、これはもう、どうしようもない。

 ストリートがその「間」にあるの、に。あらねばならないのに。


ロックンロールが夢であることをやめた、この2006年3月14日0時14分現在でもストリートは未だ「路」としての機能を失なっていない。だから日本のロックがそれでも「ロック」でありたいのならば。そして歌で誰かを「応援」したいならなおさら、歌い手は共同幻想としてのロックなどではなく、繋ぐストリートそれ自体を共有できる現実として示し、歌わなければならないのだ。
これによれば「ストリート」とは「歌の中の私と、夢を繋ぐ道」ということで、私たちがそこを〈通り過ぎる〉もの。でも、それだったら、streetじゃなくてroadだろう。On the roadの。roadがonという前置詞を伴うのに対して、streetに伴う前置詞はin。streetはその上を通り過ぎるための場所というよりは、その中にいるための場所である。言葉を換えれば、roadがその先、道の終わり(the end of the road)或いは未来を指し示すのに対して、streetはその中にいるという現在を指し示しているということになる。不図、ジョン・バースという名前が頭の中を過ぎったが、すると未来はいかなるものか。それは言わぬが花ということになろう。