ゲゼルシャフト?

 http://blog.picsy.org/archives/000167.html

 このテクストが準拠している鈴木謙介氏の論文を見ていないので、本来なら何ともいえないのだが。「所有」、「共有」、「公有」。また、「共同体主義」、「保守主義」、「リバタリアニズム」、「コスモポリタニズム」。曰く、


GNUwikipediaのようなオープンソース的行動が、氏の議論とは逆に、プルードン地域通貨のような共同体主義とは遠いということは、上の議論で明らかになったが、では公有をベースとする保守主義と相性がいいかといえばそうではない。むしろ、オープンソースコミュニティやレッシグは、コスモポリタニズム(世界市民主義)に近いのである。
 国家といえども国際環境においては、ひとつの共同体に他ならない。それに対し、環境主義国境なき医師団などの国際NPOは、国家自体を相対化した上で、コスモポリタニズムに基づく思想を形成している。オープンソースコミュニティやレッシグはこれに近い。
 全般的に、氏の議論は、ドメスティックな議論しかしていない(そういう意味でカントを除く19世紀以前のスキーマしか議論をしていない)。もっと議論に国際関係論的な視点をいれるべきだろう。

そして、コスモポリタニズムにとっては、ローカル共同体や国家が相対化されてしまい、静的なコミュニティは単なる利益(既得権益)集団にしか見えず、違和感を覚えている。そのため、コスモポリタニズムとプロジェクト主義(=目的のために集まる集団)を背景にした動的コミュニティ主義が生まれてきた。氏の定義する創発主義は、こっちのコスモポリタニズムに分類すべきであろう。

氏の議論における、保守主義共同体主義リバタリアニズムという三項に、コスモポリタニズムを加えると、保守主義共同体主義が一種の同盟関係を結び、リバタリアニズムとコスモポリタニズムが同盟関係を結んでいるように見える。
リバタリアニズムやコスモポリタニズムにとって共同体はゲゼルシャフト的であり、保守主義共同体主義にとって共同体はゲマインシャフト的である。この違いは、共同体の同一性を静的にとらえるか同的に捕らえるか、多重帰属を認めるか否かという思考に影響を与えている。

ところで、「ゲゼルシャフト的」な「共同体」って? 形容矛盾じゃないの? その後に続く静的/動的、「多重帰属」の可否というのが、ゲゼルシャフトゲマインシャフトを区別する指標になるとは思えない。上の方で、「プロジェクト主義(=目的のために集まる集団)」という言葉が出てくるが、そのような集団を「共同体」とは呼ばないだろう。「共同体」といえるのは、そのような集団が前提とするより大きな、無定型な集団とはいえないような集団であろう。〈学会〉というゲゼルシャフトとそれを含むがそれとは同一ではないアカデミックなコミュニティ。ゲゼルシャフトゲマインシャフトを区別するのは、達成すべき「目的」の有無であろう。家族がゲマインシャフトであるのは、それが喚起する親密性とか情緒性とは取り敢えずは関係ない。その無=目的性である。だからこそ、それがかつて有していたといわれる諸々の機能を外部化したとしても、家族という集団は存立するのである。
 「保守主義」と「時間」。進歩ではなく進化、constructionではなくconstitution、と思いつきを並べてみる。