え段の音その他

 内田樹氏の「甲野先生をお迎えして/「エ」音の話」*1
 曰く、


謡で好まれる母音は圧倒的に「オ」と「ウ」の音である。それから「ア」。「イ」の音をひっぱって聴かせるところは少なく、「エ」はもっとも少ない。
つまり、「オ」と「ウ」の音はそれだけ鼻骨や頭骨などとの振動の親和性が高いということである。
逆に「エ」の音が避けられるのは、音韻的におそらく「不安」だからであろう。
古語で「エ」の母音で終わるのは「なりて」とか「候ひて」とかいう非終止形であるから、どうも「すわり」が悪い。

「イ」や「エ」の母音が非終止的であるせいで、センテンスを「宙づり」にする音韻的効果を持つことは経験的にはたしかなことである。
この数年、若いスポーツ選手などがインタビューを受けるときに、質問に対して必ず最初に「そうですねー」と「エ」音をひっぱって聴取者を「宙づり」にするところから始めるという話型を採用していることには多くの人が気づかれていると思う。
あるいは、「・・・だしい」「・・・ですしい」というふうに「イ」音をセンテンスの最後に持ってきて、「オレの話はまだ終わってないぞ」という意思表示をする発語の習慣も若い人にはひろく行われている。
あるいはもう中高年層さえも使い出した、あの「半疑問文」(名詞止めの最後の音をはねあげる)も聴取者を「宙づり」にする効果を狙っている点では同様である。
これらの非終止形の連打がもたらす効果はとりあえず、自分の次のセンテンスが始まるまで、対話の相手を「沈黙」状態にとどめ置くことにある。
つまり、好んで非終止的音韻をセンテンスの最後に持ってくるのは、できるだけ発語権を独占して、相手に口をはさむ機会を与えないという、自己中心的な発話者に典型的に見られる習慣なのである。
以前読んだ本の中で、小学校の先生たちが、教室の中で生徒たちの発語に「エ」音が増えてくるとのは学級崩壊の徴候だという指摘をされていた。
「うるせー」、「うぜー」、「だせー」、「ちげー」、「くせー」・・・といった「エ」の長音が教室に蔓延するようになったら、そこではもう授業は成立しないだそうである。
これは「エ」音が「対話の拒絶」の音韻的なシグナルであると考えれば理解できる話である。
 たしかに、「え」段の音は「非終止形」ではある。但し、「い」段が「非終止形」であるのは、現代語に限っての話であり、古語では例えばありたりというふうに言い切られるのではないか。それはともかくとして、そこから、「非終止形の連打がもたらす効果はとりあえず、自分の次のセンテンスが始まるまで、対話の相手を「沈黙」状態にとどめ置くことにあ」り、「つまり、好んで非終止的音韻をセンテンスの最後に持ってくるのは、できるだけ発語権を独占して、相手に口をはさむ機会を与えないという、自己中心的な発話者に典型的に見られる習慣なのである」ということがストレートに導かれるのだろうか。たしかに、会話分析の教えによれば、発話者にはセンテンスを言い切る権利がある。だから、「非終止形」を使うのは自分のターンが終了していないこと、自分のターンを延長することを宣言していることに等しいとは取り敢えずいえる。しかし、それだけだろうか。
 文章語における「。」というのは、話し言葉では、(たんなる息継ぎ以上の)沈黙が対応していると取り敢えずはいえるだろう。「非終止形」でしかも「。」が打たれること。これは共−発話者(書き言葉の場合は読者)にとって何を意味するのか。それは、「終止」しない、つまり言明の成り損ないを手渡されるということである。発話者は、その言明の完成、或いはその言明の真偽等には責任を負わず、それらは共−発話者に回付されるというわけだ。ここに見られるのは、そういうことが許される〈親密性〉であり、〈甘え〉であろう。〈親密性〉は〈甘える−甘えさせる〉という相互性抜きには存立しない。たしかに、そういう関係は「自己中心的」であるのかも知れない。しかし、それは「きるだけ発語権を独占して、相手に口をはさむ機会を与えない」というものではない。逆に、「発語権」を(一方的に)共−発話者に譲渡してしまうことが問題なのである。特に、発話者が〈片想い〉的に〈親密性〉を想像しているような場合、自らは〈甘える−甘えさせる〉という関係にはないと思っている共−発話者にとっては、そうした発話は徹底的にうざいということになる。
 ここでいいたかったのは、「非終止形」の語用論的な意味には(少なくとも)2つの可能性があるということだ。現実にどちらなのかというのは、おそらくケース・バイ・ケースということになるのだろうか。
 さて、「え」段の「非終止形」でまず思い浮かぶのは、内田氏も言及している「て」であろう。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060102/1136214715でも言及した、DHORNE &小林夫妻の『日本語の森を歩いて フランス語から見た日本語学』は、「て」を、「て」を含む事態がそれ以下の事態に対して「時間的ないし論理的」に「先立つ」ことを示しているという(p.82ff.)。この「先立つ」ことは、「「時間」概念以前の、もっとも根源的な「時」」であるという(p.85)。曰く、

この時間の関係は、けっしてわれわれが一般的に自明だと思っている過去から現在そして未来に続く連続的な時間ではありません。(略)それは、具体的な出来事に固有な時間、つまりある出来事が起こり、実現するその「時」としての時間です。英語には、出来事が起きることを示す「occur」という動詞がありますが、フランス語にはその同じ語源から出た「occurrence」という名詞があって、それは「機会、場合、出来事」などを意味します。ここで問題になっているのは、そのような「時」です(pp.84-85)。
「て」によって示される「時」は、「生きた現実の時間の流れのなかに根づいているわけではありません」(p.85)。だからこそ、実際には、「て」は「いる」とか「いた」が続いて、〈現在〉とか〈過去〉といった「時間」に定位されることになる。「て」は、それに続く事態を、最終的には自らが「時間」に定位されて終止することを要請しているともいえる。
 「時間」に定位されない剥き出しの「て」、「「時間」へと届いていない」(p.95)「て」は、「状況なしの事実性」を意味してしまうという(p.94)。それはある意味で、時間とか文脈とかを超越した「事実性」でありつつ、現実には起こることもない全く〈非現実的〉な「事実性」でもある。DHORNE &小林夫妻は、剥き出しの「て」には2つの可能性があるという。先ずは、(共−発話者の了解を前提とした)「て」以下の省略(pp.97-101)。「さあ、食べて!」の後に、〈下さい〉が続くべきだということは誰でもわかる。また、「人をからかって!」の後には「悪い人ね」とか「だめよ」。特に後者については、「甘え」の存在が指摘されている(p.101)。或いは、命令形である。それも相当に切羽詰まった。「ペンを貸して。」とか「助けて!」とか。曰く、

共発話者は「ペンを貸す」の真偽を問われているのではなく、それを現実化して、現実の「時間」のなかで具体的な状況を生み出すことを求められているのです。単独では発話状況への結びつきを構築できない「て」の「時」を発話状況へ関係づけることを共発話者に要求する――その言語的な要求が、同時に、状況を生むことへの現実的な要求になっていると考えることができるでしょう(p.103)。
 私がいった文を終止することの共−発話者への回付というのは、この2つの中間に位置するだろうか。
 内田氏のテクストに戻ることにする。

以前読んだ本の中で、小学校の先生たちが、教室の中で生徒たちの発語に「エ」音が増えてくるとのは学級崩壊の徴候だという指摘をされていた。
「うるせー」、「うぜー」、「だせー」、「ちげー」、「くせー」・・・といった「エ」の長音が教室に蔓延するようになったら、そこではもう授業は成立しないだそうである。
これは「エ」音が「対話の拒絶」の音韻的なシグナルであると考えれば理解できる話である。
このパッセージを読んで、〈巫山戯やがって!〉*2と思う関東人は多いのではないか。これが正しければ、東京の下町においては、生徒が田舎者でない限り、つまり母語である江戸言葉を正しく身につけている限り、「学級崩壊」になってしまうではないか*3。「以前読んだ本」て何なの?
 ところで、「聴取者を「宙づり」にする効果を狙っている」「「半疑問文」(名詞止めの最後の音をはねあげる)」については、かなり以前に、「コケティッシュな発話」として、立川健二氏が考察していたと思うが、現物が手許になく、確認できない。

 某MLで、「だぜ」とか「だよね」といった関東の言い回しを不快に感じる関西人(正確には四国の人)がいて、それはどうしてなのかをちょっと考えてみようかなとも思っていたが、これはまたの機会にします。

*1:http://blog.tatsuru.com/archives/001439.php

*2:剥き出しの「て」だ!

*3:但し、この中で「ちげー」は江戸言葉ではない。