『現代小説のレッスン』

 6月29日、石川忠司『現代小説のレッスン』(講談社現代新書)を読了する。
 この本の全体を貫く鍵言葉は、「純文学=近代文学」の「エンタテイメント化」といえるだろう。それは、「内省や描写のたぐいからそれら特有のあの「かったるさ」(中略)を消去した上でなお作中に存在せしめるセンス」(p.11)ということになる。
 では何故、小説に「内省」や「描写」が要請されるのか。著者はベンヤミンを引用する−−「長編小説作家は民衆から、そして民衆の日々の営みからみずからを隔絶してしまっている。この、孤独のうちにある個人こそ、長編小説が生まれる産屋なのである」(p.12)。


 ベンヤミンの言う「孤独」とは、畢竟活字(書き言葉)にほかならない。書き手は血の通った聴衆に対してではなく、何よりもまず活字を相手に一人ぼっちで呻吟する(ibid.)。

 結局、活字(小説)はストーリー内容だけにはとても耐えられない。その「単純さ」を十全に支えきれない。話し言葉が書き言葉に移行すると、その途端そもそも人間の言語に備わっていた根源的な豊かさがごっそり脱落してしまうのはもう不可避な現象であって、こうして活字に記された「物語」=小説は、話し言葉にともなっていたのとはまた別種の豊かさを創り出す課題に直面したのだった。要するに、ストーリー内容を語る純粋に物語的な位相につけ加え、それとは別種の新たな言葉の位相の開発を強いられたというわけである(pp.13-14)。
この「別種の新たな言葉の位相」が「内言/内省」、「思弁的考察(感想)」、「描写」ということになる。つまり、

書き言葉は話し言葉と同等の力でもって物語を語るためには「内言」「描写」「思弁的考察」などの位相をどうしても必要とする。そして「ストーリー内容」「キャラクター相互の会話」「内言/内省」「描写」「思弁的考察」etc.……、以上の要素をバランスよく配置して、最終的にひとつのスタイルにまで洗練・昇華させたジャンルがいわゆる純文学=近代文学にほかならない(p.15)。
しかし、

 「内言」「描写」「思弁的考察」は、活字の無味乾燥さを助けるべく生まれた、ストーリー内容自体にとっては副次的・外的・偶然的と言っていい産物である。そしてこのように、本質において副次的・外的・偶然的であるがゆえ、「内言」にしろ「描写」にしろ「思弁的考察」にしろ、ストーリーとは関係なくもっぱら自分の力のみで際限なく増殖を重ねる傾向を秘めているのであって、つまり「内言」のたぐいは物語の進行・展開を脅かし、暴走の果てには妨害すらしかねないシロモノなのだ(pp.16-17)。
近代文学」の危機とは、「「ストーリー内容とは異なる言葉のさまざまな位相」の過剰な増殖」による「窒息」状態(p.17)であるが、「エンタテイメント化」とはこの「窒息」を回避し、「活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性、言葉を換えれば、物語の豊かさを目指しつつ活字に踏みとどまる方向性」(ibid.)ということになる。

 描写のエンタテイメント化      

 思弁的考察のエンタテイメント化   

 内言のエンターテイメント化     

ということになる。「思弁的考察」と「内言」の間に、著者が「悪夢のように素晴らしい」(p.100)と形容する村上春樹阿部和重を主に論じた2つの章が挟まっているのだが、この2人は「内言」の「エンタテイメント化」を「準備した」として位置づけられている。また、勿論、この3つは別々のものではなく、相互に絡まっていると言っていいだろう。或いは、全て〈内面〉というものの在り方に関わっているともいえる。例えば、著者は村上龍の「作品には近代文学につきものであった「告白」の要素がまるでない」(p.45)という−−「結局、村上龍が「告白」をしようとすると全部「説教」になってしまうのだ」(p.46)。
 さて、2章では、保坂和志における「思弁的考察」の「エンタテイメント化」が論じられている。鍵言葉は「共同性の回復」(p.70)。数年前、私は保坂和志の「残響」という小説をフィーチャーして、(多分に見当違いかも知れない)論文&学会発表用ペーパーを書いたことがあるので、これには興味津々。

保坂和志の最大の特徴とは、そんな孤独に甘んじずまたとどまらず、「他と通約不可能なもの」が「極限にまで」いたった絶頂の地点で、当の「思弁的考察」をそっくり新たな共同性へと転じてしまうところにこそあるので、つまりこれは物語性への回帰がなされるkとなく、物語が活字に定着したとき背負った運命としての「思弁的考察」は引き受けられたまま、いわば「思弁的考察」=通約不可能性ならではの「共同性」が目指されている事態にほかならない(p.72)。
 著者は『〈私〉という演算』所収の「祖母の不信心」に言及する*1。保坂の祖母は、「不信心」と「信心」が同居している。保坂はこれを巡って、「いろいろ逸脱や脱線を繰り返し、祖母の不信心の周りをグルグル巡った挙げ句、ついに最終的な結論には到達しないのだ」(p.74)。正確には、保坂は「こういう風にいろいろ考えてみてそれでもわからないと思うことが、「わかっている」という状態を指すのかもしれない」という「最終的な結論」を出している。ここから著者は、

 われわれは誰でも普段の日常生活では近しい人たちを言語で裁断しようとして、でも彼ら(彼女ら)の具体的な存在の厚みに阻まれては挫折し、しまいには日常生活ではごく一部を占めるにすぎない言語の推論を適当に切り上げ、結果として現にまさに右の「いろいろ考えてみてそれでも……」といった感じで隣人・友人・恋人・家族たちの「真意」を「了解」しながら生きているのではないか。
 言葉を換えれば、論理=言葉をはるかに超えたあの「愛」の喜ばしい切迫を絶えず受け、まさにそこの真っ只中で隣人を含めた世界を肯定しながら生きているのではないか。(後略)(pp.74-75)
 さらに、

 とまれ、保坂和志にとって考えるとは、そこに普段の生活のリズムを、ためらいや停滞を、脱線や逸脱を、そして何よりもあえて言葉を超えたもののための「スペース」を持ち込む営為にほかならない。要するに、保坂和志の「思弁的考察」とは、思考のかたちをとった「生活」なのだと言っていいだろう。具体的もしくは抽象的に「日常生活」について考えられた思考ではなく、あくまでも正確に思考のかたちをとった「生活」そのものである。
 そしてこの「生活」に見られる態度、論理をメカニカルかつ一瀉千里に進めるのを拒否し、反対に食い違いや脱線の方を重要視する気の長い態度とは、ある意味で(単一の論理=言語では断じてなくて)複数の「論理」=「言語」を抱え込み、「いや、時間なんていくらでもあるんだからさ」と言わんばかりに暢気にその紛糾や停滞を楽しんでいるに等しく、これは近代人=個人の思考というか、むしろ民俗学者宮本常一の著作にたびたび現れる伝統的な「村の寄り合い」か何かにずっと近い(pp.75-75)。
保坂は「頭の中で一人宮本流の「村の寄り合い」を催している」(p.78)状態にあるのだ。著者はそれが〈小説〉として現象する必然性を次のように言う;

 保坂和志の「思考のかたちをとった『日常生活』」とは畢竟、共同性の謂いである。共同体こそ複数の論理の紛糾や空回りによって単線的な論理がなしくずしにされ、明確な結論よりもともに適当に、すなわち真の意味で真面目に生きることが求められる場にほかならないからだが、ところでこのタイプの思考を「純粋」に突き詰めるためには具体的な形象、すなわちさまざまな人物たちが実際の世界においてお喋りしたり触れ合ったりしている形象が是が非でも必要とされよう。端的に言えば、「小説化」される必要があるわけだ。(略)保坂和志の思考=「共同性」は言語の閉域を超えた世界を動きまわるのが真骨頂で、したがってそれが自らの本性=「共同性」を思う存分開示させる媒体としては、単線的な論理が支配的な哲学の散文でなくて、より論理的「曖昧」さが身上の小説ジャンルの方がどう転んだってふさわしい(pp.78-79)。
 著者は、保坂の「小説」=「思考」=「共同体」は、「その成員各自の通約不可能性を前提とした上での「共同体」、いわば孤独な近現代人ならではの「共同体」」(p.85)だという*2。それは、「物質的な「共同性」」(p.93)であり、「唯物論的で真に開かれた「共同性」」(p.91)である。具体的にはどういうことなのか。著者はウィリアム・ジェイムズ(『根本的経験論』)を引く(pp/89-90)。著者が引用した箇所から、要諦ともいえるセンテンスを抜き出せば、「あなたの[知覚]対象はまたしても私の対象と同じものである」。

彼[ジェイムズ]にしたがえば相互理解=コミュニケーションとは本来、人間的・精神的な「頭」抜きで、つまりある人の手や足や眼などの部位が対象とかかわり、同じその対象と別の誰かがやはりつかんだり見るなりしてかかわっているならば、両者の間にありふれて生じる極めてシンプルかつ野蛮な現象なのである。恐らくコミュニケーションは、いわゆる「恋人同士」の関係や「友人同士」の関係よりも、石ころが捨て看板に当たったり風が海面に触れて波を起こすような自然の営みの方にずっと近い(p.90)。
小説の登場人物たちは「会話」をするけど、そこでは「人間的・精神的」理解以前にそれぞれの口とか耳が「物理的な大気の震え」を「共有」しているのである*3。とはいっても、「旧知の間柄でのアイ・コンタクトと、電車の中で偶然隣り合わせた間柄でのアイ・コンタクトとはなるほど歴然と異なっている」(p.92)*4

両者を区別するのはたんに時間の長さにほかならない。「深い」コミュニケーションとは端的に物質的「共同作業」が持続し長引いた状態を指すわけで、つまりコミュニケーションにとっては理解や交歓よりも何よりも、その当事者たちがなるべく長時間、ただいっしょにいるということの方がはるかに大切なのだ。
 したがって保坂和志の小説においては「時間」なる存在が非常に大きな意味を持つ。ひたすら時間の力によって、コミュニケーションは「生きずり」的ななものからさらに「深い」ものへと、荒削りなものからさらに洗練されたものへと発酵的に移行しよう。(後略)(pp..92-93)
 とにかく、保坂の小説世界においては、「バラバラであるという互いの「距離」が、大気や光の充満したスペースとして、イコール同時に互いを触れあわせる機能を果たすジェイムズ的な意味での「ロープ」なのであり、あらゆる孤独な存在者たちは、まさにその孤独ゆえにこの「ロープ」を介して互いにつながっているわけなのだ」(pp.93-94)*5。また、「保坂の「共同性」とはバラバラであることがそのまま「共同性」に直結する物質的「共同作業」にほかならず、よって保坂の小説は近現代の孤独を踏まえつつ、同時にかつての口承の物語にそなわっていた喜ばしき共同性−−読書という「ロープ」を介して読者もそこに加われる−−をも回復する見事な「エンタテイメント」作品になっているわけである」(p.94)。
 あと、「海」の持つ意味への言及があるけど(pp.94-99)、それは省略。

 この本の3・4章に跨る村上春樹への言及、そして、5章における水森美苗(の特に「語り手」)への言及は、現在読みかけである竹中均『精神分析社会学』(明石書店)との関連で興味深かった。また、4章における阿部和重論での日本語の「ペラさ」への言及は少々違和感を感じた。これについては、やはり読みかけの武田徹『偽満州国論』(中公文庫)でも〈日本語論〉が展開されているので、それとの関係で後日言及することがあるかも知れない。

 ところで、著者のいう「近代文学」の危機−−「「ストーリー内容とは異なる言葉のさまざまな位相」の過剰な増殖」による「窒息」」−−だけど、私はストーリーが壊れた小説というのは基本的に好きだ。というか、ストーリーを楽しむだけなら、本を読む必要はない。最近は、名作の荒筋ばかりを集めた本がけっこう売れていたらしいけれど、荒筋を読んでいればいいのだ。
 それはともかくとして、「窒息」している人たち、息苦しい人たちにとって、「窒息」の一つの症候は、蓮實重彦*6のいう意味での「テーマ」−−「言説の論理を超えたかたちで類似した言語記号を引き寄せ、差異のシステムの外部に形成される吸引力」(「「赤」の誘惑−−フィクションをめぐるソウルでの考察」『新潮』7月号、p.195)−−、或いはそのような「テーマ」、「「テーマ論」的な「怪物」」(p.198)を称揚する批評的言説の氾濫だろう。しかしながら、(例えば)「理論的な書物の「真面目で事実的な発話」を契機として、その言表行為の主体の意志とは無縁に、もっぱら偶発的に導き出された」(ibid.)「怪物」が間テクスト性という水準で「物質的な「共同性」」を成立せしめる「ロープ」として機能することは見易いことだ。勿論、そういう意味では、「怪物」は断乎として肯定されなければならない。しかし、〈無条件の肯定〉を躊躇わさせてしまうことが不図思い浮かんでしまうということも事実なのである。蓮實氏は、「怪物」は「作者の意図によって限定されたコンテクストの中では仮眠状態に陥っている」のであり、それを「目覚めさせる」のは読者である(p.197)といっている。また、「睡眠状態にある言語記号」が「目覚める瞬間に誘発する驚き」(ibid.)という言い方もしている。ここで想起されるのは、東浩紀氏などのいう「データベース消費」或いは「動物化」の議論である。「怪物」も実は、その「驚き」(萌え)を統計的に計測されてデータベースから引き出された〈萌え要素〉にすぎない可能性はないのだろうか。その場合でも、「怪物」は「多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する」(p.184)ことはできるのだろうか。

*1:石川は『〈私〉という演算』を「短編集」としているが、私はエッセイ集として読んだ。

*2:とはいっても、石川は「あの昔ながらの懐かしくも穏やかな」[p.78]という言葉を思わず使っちゃってはいる。

*3:やはり、これはまだ〈社会の一歩手前〉だろうと思う。本格的に社会が立ち上げるためには、「共有」していることに気付いていること、「共有」の共有が必要になるのではないか。とはいっても、常に意識の前面で気付いているということではなくて、常に気付くことができるという状態になっていること。このことは、ネガティヴなかたちで現れることもありうる。これは、差別とか社会的排除といった問題系とも関連しているのだけれど、例えば、嫌な奴と空間を共有しているということに気付いたとき、瞬時に、ああ空気が不味いぜ!と感じてしまう。そういえば、石川も、この本の中で、「香ばしい」という形容詞を多用している。

*4:序でに、「親密性」と「匿名性」を巡るシュッツの議論、最近の社会科学基礎論研究会における矢田部圭介氏の報告を参照されたい。

*5:ここで石川がいう「孤独」は、アレントの用語法では「孤独(loneliness)」ではなく、寧ろ「独居(solitude)」と解すべきだろう。

*6:「重彦」というのは厳密にいえば誤字で、「彦」は正字で書くのが正しい。