生物と食物とか

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/alice-2008/20090513/1242220596


やはりpig fluでもhog fluでもなくswine fluなのは、いわれるとおり、あくまでも「集合名詞」としての豚が問題だからなのでしょうね。或いは、pigやhogでは俗っぽすぎる?
それから、生物としての名称と食物としての名称が違うのはbeefもそうですよね。
さて、中国語ではpigという意味で猪を使い、豚という字は河豚や海豚以外では中国語において殆ど見たことがない*2。辞書で豚という字を引いてみたが、意味や用法の違いについて特に言及はなかった。
それから、生物としての名称と食物としての名称が違うものとして、中国語や日本語においては、稲がありますね。植物学的には稲で、刈り取られて食糧になると米になり、さらに料理されると飯(メシ)或いは粥になる。但し、中国語で米は穀物一般を指し、稲は大米。ただ、英語でもriceが稲・米・飯の全てを指すのに対して、paddyは米までの段階しか指さないということで、一応区別はあるのかな。
また、さけ(鮭)としゃけ。

Williams, Bendelow and Crossley on Goffman(メモ)

承前*1

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

速水奈名子「身体社会学とゴッフマン理論」(『コロキウム』2, pp.80-102)の続き。
Williams & Bendlow、Crossleyのゴッフマン論の紹介。「彼らは社会構築主義的な身体観に抵抗し、社会学現象学的な身体観を取り入れることの意義を主張した」(p.86)。


Williams, S. & Bendelow, G. The Lived Body: Sociological Themes, Embodied Issues, Routledge, 1998
Crossley, N. “Body Techniques, agency and Intercorporeality: On Goffman’s Relation in PublicSociology 29-1, 1995



彼らはシリングと同じくゴッフマン理論における身体概念を、以下の三類型に集約している。まず、ゴッフマンが身体を?有体として捉えている点、次に?社会的階級を示すシンボルとして捉えている点、そして?社会的アイデンティティにかかわるものとして捉えている点の三点である。この類型化は、一見シリングのそれと同じように見えるが、?に関する捉え方において、両者の見解には大きな違いが見られる。シリングも、ゴッフマンが身体を有体として捉えていたと指摘しているが、彼はその際、身体を「自己によって操作が可能なもの」として扱っていた。つまり、シリングにとって、ゴッフマン理論における身体は、自己により操作される物理的な存在にすぎなかった。
しかし、ウィリアムズ=ベンデロウは、クロスリー(1995)の議論によりながら、このようなシリングの見解を批判的に捉え、ゴッフマン理論がデカルト心身二元論を突破している点を示唆している。彼らは、ゴッフマン理論における身体を、単に物理的な意味において有体であると捉えるのではなく、むしろ現象学的な、生きられた身体(メルロ=ポンティ)として捉えなおさなければならないと主張した。(pp.86-87)
ゴッフマンが1951年に、”Symbols of Class Status”(British Journal of Sociology II)という論文を発表していたことは知らなかった。
さて、クロスリーによれば、ゴッフマンは「A.シュッツにより提唱された直接世界(Umwelt)という概念についての考察を深めていた」(p.87)。たしかに、Umweltについての議論はAufbau*2に見られる。しかし、シュッツとメルロ=ポンティとの関係を云々するならば、もっと後期のテクストを参照しなければならない筈。何しろAufbauはシュッツがメルロ=ポンティを知る以前のテクストなのだから。また、シュッツとメルロ=ポンティとの関係については、(速水さんも指示しているが)西原和久『意味の社会学』、『自己と社会』をマークしておく。
社会的世界の意味構成―理解社会学入門

社会的世界の意味構成―理解社会学入門

意味の社会学―現象学的社会学の冒険 (武蔵大学研究叢書人文叢書)

意味の社会学―現象学的社会学の冒険 (武蔵大学研究叢書人文叢書)

自己と社会―現象学の社会理論と「発生社会学」

自己と社会―現象学の社会理論と「発生社会学」


クロスリーが言及しているとおり、この直接世界とは身体を介した知覚をもとに広がるものである。したがって、身体は世界を経験するための装置であり、身体と世界は相互依存的な関係にあるということができる。また(略)この直接世界の認識は自己認識とも深く関わっている。
クロスリーは、ゴッフマンも他者との対面的な世界を基調にした理論を展開することで、間主観性の問題を考察していると指摘している。彼が指摘するように、ゴッフマンは後期の著作、Relations in Public(1971)において、身体としての行為者が、「他者志向」的に、状況に即した行為(状況的な身体技法)を遂行していく様子を分析している。すなわち、ゴッフマンの相互行為論(特に[略]経験の組織化に関する議論)とシュッツ(メルロ=ポンティ)の議論は両者ともに、身体としての行為者が、世界、そして他者をいかに認識し、さらに「主体」として、日常世界をいかに構成していくのかを分析しているという点において、共通する部分があるといえるのである。
(略)シリングは主に、ゴッフマン理論における身体は、社会的に統制されるべきモノとして描かれているにすぎないと考えていたようであるが、クロスリーが指摘するように、ゴッフマン自身は身体を、現実の認識を担う中心点と捉え、またそれが社会的世界をどのように構成、再構成していくのかを詳細に検討していたのである。(pp.87-88)

五四(メモ)

今年は五四運動90周年だが、五四運動関係のテクストについて少しメモ。


『書城』2009年5月号;
銭理群「漫説“魯迅五四”」(pp.5-9)
陸建徳「校長之憂――兼聴“五四”雑音」(pp.10-19)
羅崗「一九一六:“民国”危機與五四新文化的展開」(pp.20-28)
余斌「初期白話文」(pp.39-40)


『読書』2009年5月号;
許紀霖「“五四”的歴史記憶:甚麼様的愛国主義?」(pp.3-14)
董彦斌「作為法律事件的“五四”」(pp.15-19)

また、張愛玲『小團圓』*1に関して;


沈双「張愛玲的自我書写及自我翻訳――従《小團圓》談起」『書城』2009年5月号、pp.51-58
劉紹銘「小團未圓」『書城』2009年5月号、pp.59-61
段懐清「胡蘭成的《西江上》」『書城』2009年5月号、pp.62-71
「求悪得悪、朱天文評《小團圓》」『TimeOut上海』2009年5月号、p.92

「愛は旅」

SU Lichang(蘇立昌) Semantic Theory and Figurative Language: Cognitive Explanations*1


レイコフ&ジョンソン以降の隠喩研究の認知論的展開;


Ever since the publication of the book Metaphors We Live By by George Lakoff and Mark Johnson in 1980, the traditional view of metaphor has been reconsidered and challenged by the cognitive linguists such as Lakoff and Johnson. The new view of metaphor, according to Lakoff and Johnson, is to see metaphor as;

1. Metaphor is a property of concepts, and not of words.
2. The function of metaphor is to better understand certain concepts, and not just some artistic or esthetic purpose.
3. Metaphor is often not based on similarity.
4. Metaphor, far from being a superfluous though pleasing linguistic ornaments, is an inevitable process of human thought and reasoning. (pp.67-68)

さて、conceptual metaphor。これは、

When one conceptual domain is understood in terms of another conceptual domain, we have a conceptual metaphor. This understanding is achieved by seeing a set of systematic correspondences, or meanings, between the two domains. Conceptual metaphors can be given by means of the formula A IS B or A AS B, where A and B indicate different conceptual domains. (p.194)
として定義される。しかし、conceptual metaphorは様々な比喩的表現を可能にする前提としてのメタ・レヴェルにおけるメタファーといえるのではないか。例えば、LOVE IS A JOURNEYというconceptual metaphor(p.73)。これは、以下のようなよく使われそうな、或いはポップ・ミュージックでお馴染みの表現の前提となっている;

Look how far we’ve come.
We’re at a crossroad.
We’ll just have to go our separate ways.
We can’t turn back now.
I don’t think this relationship is going anywhere.
Where are we?
We’re stuck.
It’s been a long, bumpy road.
This relationship is a dead-end street.
We’re just spinning our wheels.
Our marriage is on the rocks.
We’ve gotten out of the track.
This relationship is foundering. (pp.73-74)
そして、

the travelors/the lovers
the vehicle/the love relationship itself
the journey/events in the relationship
the distance covered/the process made
the obstacles encountered/the difficulties experienced
decisions about which way to go/the choices about what to do
the destination of the journey/the goal(s) of the relationship(p.74)
というような写像関係/対応関係が認められるという。
そういえば、大貫妙子さんも

今の私達を もしも なにかにたとえたなら
朝の霧のなかで 道をなくした 旅人のよう
(「彼と彼女のソネット」)
と歌っている。また、日本の古典的な表現としての「逢坂の関」(Cf. 篠田浩一郎『仮面・神話・物語』)。
Boucles d'oreilles (ブックル ドレイユ)

Boucles d'oreilles (ブックル ドレイユ)

ほかにconceptual metaphorとして挙げられている例;


AN ARGUMENT IS WAR
THEORIES ARE BUILDINGS
IDEAS ARE FOOD (p.75)