初めに「血液型」があったわけではないだろう


「血液型」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071025/1193305401 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090225/1235584044 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090304/1236132818 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090308/1236529774 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090312/1236788552 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090507/1241664621も。


「何型の人が苦手?」http://www.ozmall.co.jp/ol/honne/volume24/


これは、例えば先ず最初にこいつの性格、何となく合わないよねという感じ(違和感)があって、事後的にその理由として「血液型」が呼び出されるということ? 
さて、そもそも友人知人の「血液型」なんて知らないぞと思った。戦時中みたいに「血液型」を記した名札をしているわけではないので、性格が合う合わない以前に、「血液型」は不可視の情報である筈。もしかして、最近では「血液型」というのは例えば自己紹介のときの必須項目になっているのか。或いは、恋愛関係でも、正直に「血液型」を告白しなかったことが別れの原因になるとか?

劉索拉の言葉

承前*1


石剣峰「劉索拉:写作不能満足我的虚栄心」『東方早報』2009年5月8日から;


光写作不過癮、因為写作対我而言太実了、我喜歓虚的東西。音楽還有点体力活的感覚、更過癮。就我軽浮的性格、写作不能満足我的虚栄心。

林剣「馬不停蹄的世界音波」『TimeOut上海』2009年5月号から;


2007年底我在北京挙辦的作品音楽会前説、要把民楽做成揺滾楽。我做的工作就是啓発演奏家身体内的爆発力和表現音楽的霊活性、教民楽家swing和jam。他們本身的楽感素質非常好、其実、我従他們那裏也学来很多知識。(後略)(p.83)

Shilling on Goffman(メモ)

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

速水奈名子「身体社会学とゴッフマン理論」*1(『コロキウム』2, pp.80-102)の続き。
シリングのゴッフマン論の紹介。「彼は従来の社会学理論、特にパーソンズ以降の社会学理論において身体が残余範疇に位置する概念として扱われてきたことに批判を下し、社会と身体の関係を再考していく必要性を訴えている」(p.85)。
ここで指示されているC. Shillingのテクスト;


The Body and Social Theory Sage, 1993
“The undersocialised conception, of the (embodied) agent in modern society” Sociology 31-4, 1997
The Body in Culture, Technology & Society Sage, 2005


Goffman =「社会的相互行為と秩序の身体性(the corporeality of social interaction and order)を扱った主要な人物」(1997)


シリングはまず、ゴッフマン理論をフーコー理論と対比させ、両者が身体を社会構築物として捉えていた点を指摘している。同時に彼は、両者の身体観にみられる相違点を以下のように記している。シリングによると、フーコー理論における身体は、最終的には言説に回収されるもの(シリングはこれをvanishing bodyと表現している)である。それにたいし、ゴッフマン理論における身体は、行為者によって操作することが可能な身体(corporeal)、すなわち物的な事実に基づいたものである。(ibid.)
「ゴッフマン理論が提示した身体の特徴」;


1)「自己によって操作可能なものとしての身体(manageable body)」
2)「ことばではなく身体が発する一定の意味」としての「身体イディオム(body idiom)」
3)「社会的アイデンティティと身体の関係を分析」(『スティグマ』)

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

「社会的アイデンティティと身体の関係」について、速水さんは

シリングが指摘するように、ゴッフマンは『スティグマ』において、身体とアイデンティティの関係について分析している。しかし、ゴッフマンが考察対象としている自己概念は、状況的なものであり、通常、社会学や心理学において分析されるような統合的な自己ではないために、後者とのかかわりにおいて分析される自我アイデンティティ――ライフコースをめぐって形勢(sic. 形成?)される自己意識――を彼の理論を用いて分析していくことは困難であるということができる。(註5、pp.98-99)
と指摘している。
シリングによるゴッフマン批判;

まずシリングは、ゴッフマンが相互行為の領域に「身体イディオム」という、いわゆる社会・文化的に規定された規範がどのように入り込んでいるのかを説明していない点、すなわち相互行為秩序と社会的規範の関係を明らかにしていない点を指摘している。次に彼は、ゴッフマン理論がフーコー理論との比較において、身体を物的存在として取り上げることに成功しているものの、両者ともに、身体を社会構造によって規定される受身的な存在としてしか捉えていなかった点を批判している。シリングは、ゴッフマンが身体秩序の議論を展開しつつも、彼が最終的に、身体を心身二元論にもとづいた社会的構築物へと回収してしまっていることに批判を唱え、身体そのものが、社会そして個人の自己アイデンティティに及ぼす影響を明確に検討していかなければならないと指摘しているのである。(p.86)
例えば、『自己のテクノロジー』のようなテクストを参照した場合、フーコーについてここでのような結論が得られるのかどうか。
自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)

自己のテクノロジー―フーコー・セミナーの記録 (岩波現代文庫)

『生活在香巴拉』など

昨日買った本。
先ず、陳波『生活在香巴拉 対西蔵五十年間一個文明化村落的実地研究*1』社会科学文献出版社、2009;


序言(馬戎)
前言


導論
第一章 巴村概況
第二章 家戸建築與祭祀空間
第三章 巴村人的公共祭祀和朝聖空間
第四章 巴村人的暦書
第五章 儀式中的大小伝統
第六章 巴村的正統與異端
第七章 自治的村落社会
第八章 城市和郷村:関係的転型
第九章 “階級”
第十章 新共同体的実践與瓦解
第十一章 重塑村落
第十二章 巴村的伝統社会網絡:吉毒
第十三章 歴時格局的吉毒
第十四章 結論


附録
縮写
引用档案目録
参考文献
後記一
後記二

尹笑非『中国民間伝統吉祥図像的理論闡釈』上海書店出版社、2009;



緒論
第一章 吉祥図像総論
第二章 中国民間伝統吉祥図像的理想訴求
第三章 中国民間伝統吉祥図像的生存空間
第四章 中国民間伝統吉祥図像的文化積淀
第五章 中国民間伝統吉祥観念的視覚呈現
結語


参考文献
後記

ここで、少なからぬ人にとって、中国的図像に注目する契機となったのではないかとも思われる島尾伸三『中華図案見学』をマークしておく。
中華図案見学 (新潮文庫)

中華図案見学 (新潮文庫)

許栄『中国中間階層文化品位輿地位恐慌』(中国大百科全書出版社、2007)*2をようやく読了。

*1:英語では、Reproducing Shambara: Half a Century of Village Life in Central Tibet

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070516/1179286362

Swine

承前*1

今回のインフルエンザ騒動で、swine(豚)という単語を知ったという人は少なくないか。或いは、知らなかったのは俺だけ?
『産経』の記事;


新型インフル】当初、なぜ「豚」の名称を使ったのか
2009.4.29 20:09

 新型インフルエンザの呼称をめぐり、国際機関や各国政府の間で対応が分かれている。当初から用いられている「豚インフルエンザ」の呼び名に対し、科学的根拠がないといったものや、豚肉のイメージ悪化への懸念、宗教的理由から別の呼称を付けるよう求める声が上がっている。

 29日付の英紙フィナンシャル・タイムズによると、「豚」の名称が使用された理由は、患者から採取されたサンプルを遺伝的に分析した結果、原因となったウイルスは豚、鳥、人インフルエンザの雑種であったものの、豚インフルエンザにより近かったからだ。現在、世界保健機関(WHO)、米国、英国など多数の国や国際機関が「豚インフルエンザ」を表す「SWINE FLU」と表現、中国政府も同様に「猪流感」と呼んでいる。

 これに対し、パリに本部を置く動物衛生の国際機関、国際獣疫事務局(OIE)は28日、「ウイルスは人、鳥、豚を起源とする遺伝的成分を持っている」として、「北米インフルエンザ」と呼ぶよう提案した。

 AP通信によると、欧州連合(EU)のワシリウ欧州委員(保健担当)は同日、「豚」の名称が養豚産業に損害を与える恐れを指摘し、「新インフルエンザ」と呼ぶべきだと発表した。ウイルスは70度以上で調理すれば、死ぬとされている。

 イスラエルのリッツマン副保健相も27日、「メキシコインフルエンザ」と呼ぶよう要求した。ユダヤイスラム両教徒が不潔な動物とみなし、食用とすることを禁じる豚の名称を使うことは侮辱的だとの理由だ。

 一方、日本政府は当初、「豚」の呼称を使用していたが、WHOが世界的流行に対する警戒水準(フェーズ)を「3」から「4」に引き上げたのを機に、「新型」と呼んでいる。(岩田智雄)
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090429/erp0904292012003-n1.htm