Freddie Mercury

 不図した弾みで、クィーンのフロント・マンだったフレディ・マーキュリーのバイオグラフィを調べた*1。で、Greg Prato氏曰く、


Combining theatrics and an outrageously flamboyant stage persona with his fine natural-born talent (he possessed one of the greatest voices in all of music and penned some of pop's most enduring and instantly recognizable compositions), one of rock's greatest all-time entertainers/showmen was unquestionably Queen vocalist Freddie Mercury. Born Farrokh Bulsara on September 5, 1946, in Zanzibar to Persian parents (his father worked as a high court cashier for the British government), young Farrokh soon adopted the name Freddie by fellow classmates while attending an English boarding school. Freddie soon discovered his love for art and music, both subjects that he explored voraciously (he began taking piano lessons around this time), putting his newly found piano talent to use as he played in rock & roll bands with friends. Due to political upheaval in Zanzibar, Freddie and his family fled Zanzibar for England in 1964.
http://launch.yahoo.com/ar-257248-bio--Freddie-Mercury
しかし、1箇所だけだと、心細いので、http://queen-fip.com/fm-biog.htmlを見てみた。それによると、

Freddie Mercury was born Farrokh Bulsara on September 5th 1946 in Zanzibar, to parents Bomi & Jer Bulsara. Freddie moved to India in 1947. He attended boarding school in Panchgani, just outside Bombay. Whilst there he began his piano lessons, reaching Grade 4 in practical and theory. The family, with the addition now of younger sister Kashmira, moved to England in 1963.
ということである。全然違いますよね。上では、Zanzibarで生まれ・育ったことになっていて、下の方では、生後間もなく印度に移住し、印度で成長したことになっている。どちらが正しいのか。取り敢えず、下の方を信用することにした。何故なら、”The Official Freddie Mercury Site”と謳っているからだ。
 なお、フレディ・マーキュリーと宗教については、取り敢えず、http://www.adherents.com/people/pm/Freddie_Mercury.htmlを参照。これは主にRick Sky, The Show Must Go On: The Life of Freddie Mercuryという本の抜粋からなっている。様々な宗教の信者である有名人についてのサイト*2があって、その中の「ゾロアスター教」のディレクトリー*3の中に、このフレディについての頁がある。

*1:下手な英語で書き込んで済みませんでしたね。何しろ酔っぱらっていましたので。

*2:http://www.adherents.com/adh_fam.html

*3:http://www.adherents.com/largecom/fam_zor.html

基督裁判

 宗教関係のトピックが続きます。
 なんばさん*1が紹介されていたのですけど、


法王の言葉にも著作権「印税かける」法王庁が新方針


 これまで自由に引用されてきたローマ法王の言葉や文章の著作権をはっきりさせ、印刷した本などに印税をかけるという法王庁の新方針が25日までのイタリアの報道で明らかになった。

 25日はベネディクト16世が就任後初の信者向け書簡(回勅)を発表する日で、この内容も対象。バチカン周辺からは「法王の言葉の商品化」(ANSA通信)、「聖職者と金を連想させる悪い効果しか与えない」(作家メッソーリ氏)との批判や、「布教に協力してきたのに今さら…」と負担増を嘆く出版社の声が聞こえる。

 著作権の対象は、回勅、サンピエトロ広場での毎週日曜の祝福など法王の言葉と著作。印税額は本の価格の3−5%で、バチカン出版局が一元管理する。

 前法王ヨハネ・パウロ2世は自伝など数多くの本を出したが、法王に「収入」は認められていないため、出版社が寄付の形で金銭を渡していた。寄付の使途は、修道院の維持や教会の修復など、その都度決められ、著作権についての議論もこれまではなかったという。(共同)

ZAKZAK 2006/01/25
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_01/t2006012531.html

まあ、〈右傾化〉ということですね。copyleft からcopyrightへ。
 ところで、


 Associated Press
“Existence of Christ argued in courtroom” Shanghai Daily 28-29 January 2006


伊太利の「無神論者」Luigi Cascioli氏がある町の教区司祭Enrico Righi師を訴えたのだが、Cascioli氏によると、”the Roman Catholic Church has been deceiving people for 2,000 years with a fable that Christ existed.”ということである。具体的には、司祭は2つの法を侵しているという。先ず、”abuse of popular belief”、次いで”impersonation”、つまり”gains by attributing a false name to someone”ということ。
 記事では、ChristとJesusを同義で使っているのだが、この2つは意味は同じではない。後者はたんなる男の名前だが、前者は救世主ということである。後者が歴史学的・文献学的な実証によってけりがつきうる問題であるのに対して、前者は神学的にしか解決し得ない。Cascioli氏は”the European court of Human Rights”にまで持っていくつもりらしいが、
Enrico Righi師側の主張のように、Jesusという弟子集団を形成していた宗教家が実在したということは、今のところ、歴史学的・文献学的には動かしがたいだろう。また、Christの実在問題については、世俗的な裁判所が扱える筈はない。Cascioli氏は、Jesus非実在のどのような積極的証拠を用意しているのか。こちらの方が興味深い。

永六輔の言葉その他

 永六輔*1ということで、思い出したのだが、永さんの言葉で紹介したいものがある。といよりも、著書のタイトル。『死にはする、殺されはしない』。1970年代後半か。版元はたしか「話の特集」。ちょうど、〈尺貫法擁護〉運動を壮んにやっていた時期。
 〈勝ち組〉だ〈負け組〉だというのが喧しい昨今、この言葉は復活に値すると思う。
 そういえば、Matzmt MaskeeさんのBlog*2は『Life is Survival』である――「だからあなたも生き抜いて/難儀なこの世界で、あなたもわたしもサバイバル」。
 ところで、surviveという動詞で、死亡記事などではよく、故人の遺族を記述するために、受動態で使用される用法で、日本語にどう訳していいのかわからないのだが、〈遺される〉といった意味の遣い方がある。Left alone. それを考慮すると、surviveとは、私が日々、時々刻々、環境との差異を維持し続けることであるとともに、日々、時々刻々、重要=有意味(significant)なものを喪失し続けることだともいえる。Peter Gabrielは”Life carries on.”と歌っている(”I Grieve”)。そういえば、PG(featuring Kate Bush)の”Don’t Give Up”は、そのタイトルから想像して、〈頑張れ〉を想像してはならない。

世界の外

 〈神〉、例えばその存在の有無、つまり有神論か無神論かを、抽象的に語る際に、英語や仏蘭西語も分からず、中東はおろか西洋文化の素養もあまりないような輩も、おそらく意識しないうちに、所謂〈アブラハムの宗教〉的な神観念を前提としているのは可笑しいといえば可笑しい。多分、日本神道に準拠すれば、そのような前提自体こそが奇異なものとなる筈である。正しい右翼的視角からすれば、そのようなこと自体が亡国的事態ということになるか。
 〈アブラハムの宗教〉を前提にすると、有神論/無神論というのは、世界(宇宙)の外部を肯定するか否か、そうした外部にいます一者が世界(宇宙)の存在者を創造(create)したことを肯定するか否かに帰着するのではないかと思う。また、transcendentはmundaneとともにtemporalとも対立するので、これは時間の外部を肯定するか否かでもある。
 神道においては、神の有無はそもそも問題にならない。問題となるのは〈敬神〉、つまり神に対して敬か不敬かということだけである。また、神とは〈奇しきもの〉なのであり、戦死すれば誰でも神になれるように、何でも(誰でも)神になりうるのである。詳しくは本居宣長大人のテクストに直接当たられたい。さらに、佛教による相対化を被って以来、神でさえ、解脱を願う衆生にすぎない。
 
 ところで、〈アブラハムの宗教〉でも、(神道とは別の理由によって)神の有無を論うことが(それ自体で)涜神となりうることは念頭に置いておくべきであろう。イスラーム学者の中田考氏は、〈アッラーの他に神はなし〉と和訳されることが多い〈アッラー・アクバル〉を、There is no god but Allah.と英訳する。つまり、神は存在しない、しかし、Allahに関しては判断が留保されるということになる。イスラームのロジックにおいては、これによって、私たちはあらゆる世俗的な束縛のみならず〈神〉の束縛からも解放されることになるのだが、一方では肯定否定に拘わらず〈神〉に言及すること自体、無限なるものを(言表可能な)有限なものへと引き摺り落としてしまうということになるのである。

 何故このような事どもを書き散らしたのか、その語境(context)を訝る向きもあろうが、mixiのある個人日記を横目で見たためなり。