その後の二条城

日山正紀「二条城との奇縁」『本郷』(吉川弘文館)166、pp.8-10、2023


日山氏は京都新聞記者。
「二条城」*1徳川慶喜によって「大政奉還」の決定が発表された場所として有名であるが、興味深いのは寧ろ「慶喜が去った後」の「近代」の方だという(p.9)。
日山氏が2020年7月に書いた記事の冒頭;


最後の将軍、徳川慶喜が二条城を立ち去ったのは、慶応3(1867)年12月12日のことだった。二の丸御殿における大政奉還の表明から2ヵ月、本拠にしてから3ヵ月に満たなかった。ここに将軍の城としての歴史に幕を下ろしたが、現代の史跡「旧二条離宮(二条城)」となるまでに、めまぐるしい変遷を重ねている。徳川の葵紋に、皇室の菊紋が覆い重なった意匠がその特異な足跡を物語る。(Cited in p.9)

明治の新政府は、二条城の皇居化を一時検討していた。京都御所から明治天皇が2度にわたり行幸しており、仮皇居を本丸、太政官を二の丸に造営するとの青写真まで描かれていたという。
だが、事実上の東京遷都により、京都は都の地位を失う。これに呼応するように、慶応4(1868)年1月には、立法や行政、司法を統括する「太政官代」が城内に置かれる。その後、「京都府庁」を経て、宮内省の迎賓施設「離宮」へ転成する。
近世城郭は多くが不要とみなされ、明治にかけて廃城が全国で進められた。幕末に200ほどあった数は40ほどになり、二条城も消え去る可能性はあり得た。
「歴史的なたたずまいを現代に残せたのは、離宮になったことが大きい」(小林氏*2)(ibid.)

このように、皇居候補だった近代二条城は、流転を繰り返していた。首都でなくなった都市・京都が、皇室儀礼の場となり、海外の賓客も訪れる「古都」に位置づけられてゆくのに符合する。これを演出する舞台の一つとして、大正大礼に際しては饗宴が営まれた。その後、1939年から京都市が所有・管理している。(後略)(pp.9-10)