連れてこられる「時」

佐治晴夫「出会いが紡ぐ人生という織物」『SALUS』(東急)265、p.28、2023


曰く、


(前略)教養として読む宗教の教典には関心を持っています。たとえば、旧約聖書のなかで、とりわけ愛読している箇所は、”コヘレトの言葉”です。その第3章1~13節には、こう書かれています。「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある……神はすべてを時として適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた……」。私たちの日常は、空間という舞台の上で、私たち人間を含む物という演者が、時間とともに繰り広げるドラマのようなものですが、この旧約聖書に出てくる表現は、出来事の舞台である空間と時間とを一体化していて、アインシュタイン相対性理論に通じる趣があります。さらに」興味深いのは、原典の言語であるヘブライ語には、過去、現在、未来の3つの時制がなく、完了形、未完了形しかありませんから、時間の流れという感覚が薄く、時の訪れが物事を生起させるのではなく、物事が、それにかなった”時”を連れてくると考えている視点です。この考え方は、曹洞宗の開祖、道元禅師の大著、正法眼蔵*1のなかの一節、有時の巻で、「今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す」、つまり、過去、未来は、すべて現在のなかにあって、実在するのは”今、この時”のみという主張で、出来事とと時の一体化を説く旧約聖書の時間論そのものです。(後略)