「新聞街」としての

尾崎真理子*1「近くて遠い旅」『銀座百点』(銀座百店会)808、pp.24-26、2022


曰く、


「有楽町にいた頃はお客が多くて、よく仕事が中断したよ……」
*2の先輩、作家の日野啓三*3の思い出話の通り、昭和の半ばまで銀座は新聞街だった。「読売新聞」は関東大震災と太平洋戦争の空襲によって二度、社屋を消失し、その後も今のマロニエゲート銀座*4辺りに社を構えた。一九七一(昭和四十六)年からは大手町に移ったが、現在の新車億位建て替える際に三年余り、東銀座の旧日産ビルに仮住まいした。新橋演舞場歌舞伎座があまりに間近で、その間は日々、僅かに浮き立った気分でいたのを告白しよう。(p.24)
今でも、地方の新聞社や放送局の東京支局は銀座一帯に集中している。また、朝日新聞社は、読売から観れば川向う、数寄屋橋を渡った有楽町に、1970年代後半に、築地に移転するまで、あった。明治時代、石川啄木がいた頃は、朝日新聞は現在の銀座6丁目、瀧山町にあった*5。川を渡って有楽町に移ったのは何時頃なのかは知らない。