小金井小次郎(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160408/1460082660に対して、


osaan*1 2016/04/08 14:49
あのあたりは小金井小次郎親分の縄張りで、昔はガラの悪いのがウロウロしていた、というのは私も若いころ耳にしたことがあります。
http://www.geocities.jp/mitaka_makita/nogawa/kojiro.html
>生涯の内、関八州取締出役に二回捕まり、一回目は佃島の牢送り、二回目は三宅島に流罪となる。島民に牛乳を飲むことを教え、後に多摩に乳牛をいれたのも彼だったという。
はてブで誰か触れるかと思いましたが、意外と忘れられているようですね。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160408/1460082660#c1460094575
小金井一家というのは極道の歴史みたいな文脈では時々目にしますね。
さて、小金井次郎に関して偶々目にしたテクストを幾つかマークしておきます;


小金井市◆小金井小次郎の墓 歴史 ◆ 」http://koganei-kankou.at.webry.info/201109/article_17.html
「野川沿いを歩いて俠客の墓へ?」http://irumamusashisanpo.cocolog-nifty.com/irumamusashisanpo/2010/04/post-b067.html
「『三宅島流人 小金井小次郎』 [読書日記]」http://sanchai-documents.blog.so-net.ne.jp/2013-06-22
「小金井神社(小金井市)【追記あり】」http://ameblo.jp/tweet-tweeties/entry-12135030978.html


関連人物として、新門辰五郎とか山岡鉄舟*2が浮かんでくる。小次郎の孫、関綾二郎は小金井市長を務めたことがある。また、新撰組の松本捨助は若い頃小金井小次郎の子分だったという。また、明治になってから一時期小次郎の許に居候していたことがあるという*3
ところで、小金井小次郎の「縄張り」の中心は何処だったのだろうか。江戸時代の小金井近辺の様子については、「小金井桜」以外はあまり知らないのだった。何が言いたいのかというと、やくざの成立には或る種の利権の存在が必要だと思うけど、江戸時代の小金井にやくざを成立させるに足る利権は発生していたのだろうか。この頃の利権の発生源として先ず考えられるのは宿場だろう。しかし、小金井は甲州街道からもその裏街道たる青梅街道からも外れている。玉川上水と並行していたのは青梅街道の支線である五日市街道。小金井に近い宿場町というと、甲州街道の府中と日野、青梅街道の田無と小川(現在は小平市)。もしかして、こちらの方が「縄張り」の中心だったのでは?
因みに、博打の本場はさらに山の方であったという。小倉美恵子さんは幸田露伴の「侠客の種類」を引きつつ、以下のように書いている;


博徒の非常に横行する処には必らず有名な山がある。常陸には筑波山、上総には鹿野山、上州には榛名、赤城、野州には日光、甲州には山が到る処にある」と続き、山の上には山神があるのみではなく、恰好な賭場の開かれる地であると書いている。山の神の祭日に大賭場が開かれ、地方近在の博徒の親分子分ばかりか、素人すなわち「客人」が大金を馬につけて運んで来て、賭博を試みるのを楽しみにしていたと記している。
(『オオカミの護符』*4、pp.144-145)
オオカミの護符 (新潮文庫)

オオカミの護符 (新潮文庫)

新門辰五郎を巡って;


Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%96%80%E8%BE%B0%E4%BA%94%E9%83%8E
徳川慶喜の護衛役自任 日本の侠客、最後の人」http://jirocho.com/rekiden-2.html
白倉和幸「新門辰五郎http://www.7town.jp/modules/history/index.php?lid=119
徳川慶喜の信任を得た侠客 新門辰五郎http://konn3563.seesaa.net/article/108675189.html