Non-native view

「九州や北海道。辺境の地に住んでる人って、どんな気分なんだろう。」https://anond.hatelabo.jp/20191024170355


増田曰く、


さて、東京に住む今、私は思う。

九州や北海道。飛行機でしか東京に行けないような場所に住んでる人たちの気分って、どんな感じなんだろうなって、思う。

もしかしたら、その生まれた場所で、ずっと暮らして、死んでいくのかもしれない。それは素敵なことかもしれない。しかし、地に足をつけて生きていくということは、その地が本当に自分にsuitするのか、確認する術を放棄しているとも言える。

自由とは、選択肢が多いことなのだ。

彼らには選択肢はない。自分の生まれ育った境遇を、ただ受け入れて生きていくか、受け入れずに堕落していくかだ。いくら生まれながらに大きな翅を持っていても、我等は陽炎のようにかよわき生き物だ。

おそらく、博多も札幌も、仕事や旅行で訪れたことはあるが、中高生程度までなら十分刺激的な街だろう。それは分かっている。しかしそこまでなのだ。文化の蓄積、人の蓄積、そういうものは、目に見えるものではない。東京を知って、初めて見下ろせるのだ。知性という眼差しをもって擬似的に。

増田は京都生まれらしいけれど、これは「飛行機でしか東京に行けないような場所」、「選択肢」がない(と思い込まれた)場所で生まれ育って、進学とか就職とかによって東京に出てきた奴が「選択肢」を行使せずに故郷に残った同胞を見下す典型的な仕草だな。例えば「一九八〇年、東京の生まれ」で「幼い頃の遊び場は原宿キディランドに青山こどもの城、できたばかりの無印良品」という人*1はあまりこういうことは考えないんじゃないか。
増田の語りが反発を受けるとしたら、その常に下を見下ろしている視線だろう。また、きゃぴきゃぴしたキュートさが欠如している。例えば、加藤千恵「友だちのふり」(in 『こぼれ落ちて季節は』*2の書き出し、「木崎愛」の語りのような;

東京は魔法の場所だとわたしは思う。ちっとも大げさなんかじゃない。
だってここにはなんだってある。ファミレスもコンビニも、気分に応じて店を変えることができる。観たい映画も、美術展も、欲しい本も、服も、食べてみたいものも、ここには絶対にある。
そして何より、新ちゃんがいる。
新ちゃんみたいな男の人には初めて会った。かっこよさも、さりげない優しさも、頭のよさも、地元の同級生たちとは全然比べ物にならない。
魔法の場所で大学生活を送れているのは、本当にラッキーで、人生最大の幸福だとわたしは思う。これだってもちろん、大げさなんかじゃない。(p.8)
こぼれ落ちて季節は (講談社文庫)

こぼれ落ちて季節は (講談社文庫)

*1:岡田育「昨日読んだ文庫」『毎日新聞』2014年7月13日 Cited in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20140713/1405251534

*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/08/19/195503