ヴェネツィアとビザンティン(メモ)

ヴェネツィア――美の都の一千年 (岩波新書)

ヴェネツィア――美の都の一千年 (岩波新書)

宮下規久朗『ヴェネツィア』から。


ヴェネツィアビザンツ帝国との結びつきが強かったため、カトリックでありながらもローマ教皇庁とは距離をとり、司教の任命権の大半も教皇ではなくヴェネツィア政府が握っていた。元首が宗教的な儀式を執り行い、また宗教以外の政治的な儀礼サン・マルコ大聖堂で行なわれた。こうしたヴェネツィア政教一致政策が、ヴェネツィアの教会や宗教芸術に世俗性や独特の華やかさを付与することになった。そして、この聖堂がビザンツ様式であるということは、教皇庁神聖ローマ帝国に対するヴェネツィアの立場を明確にするという意味をもっていたのである。(pp.22-23)

一四五三年、コンスタンティノープルオスマン帝国によって陥落し、ビザンツ帝国が滅亡すると、多くのギリシア人がヴェネツィアに逃亡してきた。亡命したギリシア人の中には(略)優れた人文主義者ベッサリオンもいた*1
ヴェネツィアにはギリシア人の共同体ができ、ヴェネツィア政府は一四七〇年に彼らが市内でギリシア式の典礼を行うことを認める。一六世紀初頭に教皇庁ギリシア正教会は友好関係にあったが、一五一四年、教皇レオ一〇世はギリシア人たちが独自の教会を作ることを許可した。ロンバルド*2の設計に従って、一五三九年からヴェネツィアギリシア人のための教会、サン・ジョルジョ・デイ・グレチ聖堂*3が建設され、一五七三年に完成した。寛政の直前の一五七一年になって教皇は態度を変えて禁止令を出したが、ヴェネツィアにおいてそれは有効とはされず、ギリシア人は礼拝を続けることができたのだった。(pp.133-134)