トラック島の金子兜太

雨宮処凛*1金子兜太さんの訃報 24歳が体験した戦争。」http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/28/kaneko-touta-2018-0301_a_23373858/


先日逝去した俳人金子兜太氏の戦争体験。2015年の話。相当に悲惨な話ではあるのだが、或いは悲惨な話であるが故に、読みながら、くすくすと笑ってしまう。


「小生も驚きましたけど、3ヶ月くらいで男色が広まった。男同士の関係が各所でできて、若い男を取り合って、男同士で喧嘩するわけです。それが殺し合いにまで発展する。そういう殺人事件が増えてね。あなたがたはそんな馬鹿げたことがあるかと思うかもしれないけど、そんなことがあったんです。あんなに男色が広まって、しかもそれで殺し合いになるなんて、小生も考えられなかったね」

 これは、ある人が私に語ってくれた太平洋戦争中の話である。舞台はトラック島。南方の第一線だ。戦況が悪化して爆撃が激しくなる中、慰安婦たちを日本に戻し、島から女性の姿が消えると驚くべき勢いで広まったのが「男色」だったという。


埼玉県秩父で金子さんが生まれたのは、1919年。その10代は、日本が戦争に突き進む時代と完全にリンクしていた。12歳の頃に満州事変、17歳の時に日中戦争が始まり、金子さんが東大に入学した41年には真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。それから2年後の43年、金子さんは大学を半年繰り上げで卒業させられる。軍隊に入るため、全員が文句なしに繰り上げ卒業となったのだという。金子さんは東大経済学部というエリートだが、その頃は徴兵されることは覚悟していたという。が、法学部や経済学部を出た者は、海軍経理学校の試験に受かれば訓練ののち、海軍の主計科士官になれるというシステムがあった。

 「陸軍や海軍の兵営に初年兵としてぶちこまれて、ひっぱたかれたり蹴飛ばされたり、草履の裏を舐めさせられたり、上官からひどい目に遭いたくない」という思いがあった金子さんは、試験に受かり、海軍経理学校に入学。入学直前には日本銀行に就職し、3日間だけ勤務して退職している。当時はこういった「戦地から生きて戻ってきたら復職できる」という「紐付き退職」の制度があったという。なんというか、3日で退職といい、生きて帰ったら復職といい、すごい制度である。大学の繰り上げ卒業もだが、こういう細かいことを知ると、日本が「戦争」を中心に回っていたということがよくわかる。

中曽根康弘と同じ。

そうして44年、金子さんはトラック島に配属される。

 が、辿り着いたトラック島は大空襲に晒された直後で真っ黒焦げだった。この空襲で日本軍が出した損害は、輸送船31隻、艦艇10隻、航空機279機。死者は2000人にのぼった。着くのが少し早ければ、金子さんもその死者の中にいたのかもしれない。

 そんなトラック島を米軍から死守するための要塞を作ることが金子さんらに課せられた使命だった。が、やることはと言えば「土建現場と同じ」。滑走路や道路や建物の建設だ。そんな現場で働くのは、軍人や兵隊ではなく「工員さん」。民間人で、徴用や募集などで集められた。ほとんどが肉体労働一筋で生きてきたような男たちで、不況の日本では食べられず、南洋に行けばパパイヤやマンゴーが食べ放題でひと稼ぎできるかもしれないとやってきた工員たちだったという。

 当時、トラック島にいた工員は1万2000人ほど。まだ24歳だった金子さんは、多くが自分より年上で、「やくざ者も多かった」という工員たちを束ねる任務を負う。その苦労はいかばかりかと思うが、金子さんはそんな工員たちに親しみを感じていたという。

 しかし、戦況は次第に悪化。冒頭に書いたように慰安婦を日本に帰したのち、男色が一気に広まる。補給がなくなったことにより、食糧事情も逼迫していた。サツマイモを作ったり、漁をしたりするものの焼け石に水。海に手榴弾を投げて魚をとるという漁もしたが、浮いてきた魚をとるために海に飛び込むとグラマンに狙われる。金子さんは、自らも飢えに苦しんだことを話してくれた。

 「コウモリを食ったこともあります。洞窟がたくさんあって、行くとぶら下がっている。首を絞めるとキュッと目玉が飛び出るんだ。それを刺して焼くと、ちょうどスズメの焼き鳥みたいになる。たくさん食べたらどうなったかわからないけど、たまにだったからね。それから、トカゲを食うと下痢をするんです。小生の同期の奴がトカゲを食って、下痢をして死んじゃった。その前例があるから、トカゲは食わない」


 餓死だけでなく、グラマンの機銃掃射で死んだ者もいる。夜、小屋に爆弾を落とされての死もある。また、親しくしていた工員が、目の前で死んだこともあるという。手榴弾実験の失敗で、手が吹き飛ばされ、背中に大きな穴が空いた。即死だった。周りの工員たちは、死体を担いで病院まで走ったという。金子さんも、気づけばその中に入っていた。

 そうして、多くの命が失われた果てに終戦の日を迎える。翌月、島に米軍がやってきて金子さんは捕虜となる。1年3ヶ月続いた捕虜生活の中で、金子さんが驚いたのは米軍の食事だったという。配給されたオートミールとベーコンのあまりの美味しさは衝撃だった。捕虜の中には、食べ過ぎて下痢をして死んだ人もいたという。そんな金子さんたち捕虜の警備をしていたのは18、19歳のアメリカの海兵隊。その眩しいほどの明るさが印象に残っているそうだ。

 「そういうかれらを見ていると、骨と皮になって死んでいった工員たちの姿がよみがえってくる。あの死に方はやっぱり、あまりにも気の毒じゃなかったかと思えてくるんだ。戦後捕虜としてトラック島で過ごした1年と3ヶ月の間、いちばんこたえたのはそれだった。あの若者たちを見なければ、死者のことが、これほど自分にこびりついて離れないということはなかったかもしれない」

 46年11月、金子さんは日本に復員。

ところで、(話し言葉で)自分のことを「小生」と呼ぶ人は知らなかった。
金子兜太他界を巡って(何故かみんな東京新聞);


俳人金子兜太さんが死去 戦後の改革運動をリード」http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018022001002727.html
金子兜太さん死去 戦場の過酷さ、弾圧語り「平和の俳句 一番大事」」http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018022102000151.html
加古陽治、花井勝規「反戦 尽きぬ情熱 金子兜太さん死去」http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201802/CK2018022102000263.html
花井勝規、出来田敬司「「俺は死なない」言ってたのに… 金子兜太さん死去で悼む声」http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201802/CK2018022202000151.html
いとうせいこう*2「人間への洞察 私たちを導く」http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018022290070733.html