http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170327/1490583681に対して、
私の中学時代は四中まででしたけれど。三中は袖ケ浦。埋立てが完成して袖ケ浦団地ができたのが1967年。四中は東習志野。子どもの頃(幼稚園とか小学校低学年の頃)に東習志野に行った印象はだだっ広い野原。勿論自衛隊の演習場があるわけですが、野原は演習場の外にも拡がっていて、民間の飛行場もあったように思います*1。というか、生れて初めて飛行機をナマで見たのは東習志野の原っぱ。徐々に工場誘致が始まっていたわけですが、現在の習志野高校の敷地も刑務所だったわけで、船橋市や八千代市との境界地帯としての東習志野は当初(1950年代から60年代にかけては)人口も疎らだったんじゃないでしょうか。
amidamian 2017/03/27 14:59
それはそうなんですが・・・。
近所の数十軒の農業集落も苗字が2つに集中しており、お互いを屋号で認識していましたが、それを忠実に再現すると、都会育ちの若い人は商家でもないのに屋号って?と疑問に
思うことでしょう。それらしい屋号を考えるのも面倒ですし。
ところで、習志野市って今は第七中学校まであるんですね。私が子供のころは第二までしか
ありませんでした。いくら大して広くない習志野市とはいえ、中学が二つって、どれだけ学区
が広かったんだ・・・。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170327/1490583681#c1490594396
さて、習志野の二中には円形校舎というのがあった。「円形校舎」はWikipediaの項目にもなっているのだが*2、それによると、これは坂本鹿名夫という建築家によって考案され、1950年代には日本全国の学校で円形校舎が建てられたのだという。福建省の客家の住宅*3をヒントにしたわけじゃなかった?