赤尾の知り合い

昔、赤尾敏*1は旺文社の赤尾好夫の親戚で、大日本愛国党の活動資金は旺文社から出ているというデマが流布されていて、けっこう信じられていたということもあったのだった。
さて、


林真理子 創作の原点は「第二の樋口一葉」と言われた亡母」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170819-00010003-jisin-peo


作家の林真理子*2の母親みよ治さんが享年101歳で最近他界したのだという。


「母が亡くなって1カ月たったんですけど、なんだか実感がなくて。うちの弟とも『どうしてだろうね』と、話しているんですけど……」

そう林真理子さんは現在の心境を語る。これまで、エッセイのみならず、インタビューなどでも、母と娘のさまざまなエピソードは幾度となく披露されてきた。みよ治さんをモデルにした小説『本を読む女』もある。林さんにとって、かけがえのない、敬愛する母だった。

みよ治さんは大正4(1915)年9月1日、山梨市で生まれた。実家は「清水屋」という菓子店で、7人きょうだいの6番目。尋常小学校5年のとき、児童文学誌『赤い鳥』に、「猿芝居」と題した作文が掲載され、学校どころか、県をあげて評判となる。「第二の樋口一葉」とまでうたわれた才女だった。

文学少女だった母は、3年制の女子大で文学をやりたかったんです。作家になりたかったという夢もあって」(林さん・以下同)

女に教育は必要ないとされた時代、「女子大はアカの巣だから」と、女学校の校長に反対され、大学を断念。だが山梨で女学校を出た後、東京の、現在の女子大に相当する女子専門学校(女専)に進学する。当時の山梨では希有なことだった。

「母が通ったのは、今の東京家政学院大学です。千代田区三番町にあり、エレベーターもあって、『源氏物語大成』を編纂した池田亀鑑先生や東京女子医学専門学校を創設した吉岡彌生先生など、すばらしい先生方もいて、すごくいい学校だったようです」

卒業後は福島県相馬の中村女学校(相馬高校の前身)で教師になり、その後、同郷の知人で、出版社・旺文社を起こした赤尾好夫氏を頼って、上京する。当時の彼女の口癖は、「結婚なんて嫌さ」。旺文社の事務員になったみよ治さんは、自立したキャリアウーマンの草分けだった。

「ただ、30歳近くて未婚の女の人なんて、当時はもう変人のような扱いで。母は、結局、赤尾さんの勧めで、父と、お見合い結婚したんです」

父・林孝之輔さんは、見合い当時は銀行勤務だったが、満州の国策会社に入れば、2度目の徴兵は回避できるという噂を信じ、結婚まもない昭和19('44)年、夫婦で満州に渡る。だが、満州に渡って半年で2度目の赤紙が来た。

「出征した父は、その後9年間も行方しれずになるんです」

終戦は山梨で迎えた。

終戦後すぐ、母は上京して、赤尾邸に住み込みました。赤尾さんは、アメリカの偉い人たちを招いてパーティを開き、母も楽しくやっていたようです。しかも、姉妹のような仲のよかった赤尾さんの妹さんは、すごいお金持ちの奥様で、人脈も広くて。あのまま東京で暮らしていたら、母は自分で会社を起こしたかもしれないし、作家になっていたかもしれません」

しかし、みよ治さんには試練が待っていた。長兄が結核で亡くなり、山梨に呼び戻されたのだ。

「仕方なく山梨に戻った母は、伯母と一緒に、兄の子ども3人を育てていく。そのとき、菓子店の間口を借りて、自分の蔵書を売るところから、林書房を始めるんです。東京の神田まで、かつぎ屋をやって、本を仕入れて満員列車で帰ってくる。昭和23('48)年ごろかな。太宰治の『斜陽』を、電車を待ちながらホームで読んで泣いたと、話していました」

斜陽 (講談社文庫 た 1-2)

斜陽 (講談社文庫 た 1-2)

See also
林真理子 101歳で旅立った母への「遠距離介護とみとり」」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170819-00010002-jisin-peo