隆盛の子孫

西郷隆盛の子孫については、今年の2月に気付かぬまま取り上げていたのだった。そこに言う「西郷隆盛の子孫」とは西郷隆文氏のことだろうか。


江戸時代末期に京都で結成された新選組隊士の子孫たちが3月、副長の土方歳三らの出身地、東京都日野市で「百五十回忌総供養祭」を営む。来年は戊辰戦争が始まって150年。関係が深かった会津藩福島県)藩主の松平家14代当主、激しく争った薩摩藩(鹿児島県)の西郷隆盛の子孫も参加する予定だ。

 発起人は、局長の近藤勇、土方、副長助勤の井上源三郎の兄の子孫、日野宿の名主で新選組を支援した佐藤彦五郎の子孫ら12人。節目を迎え、隊士や関係者の子孫に広く呼びかけ、土方家の菩提(ぼだい)寺でもある高幡不動尊(日野市)で営む。
(大室一也「新選組150回忌、近藤・土方子孫ら企画 西郷も参加へ」http://www.asahi.com/articles/ASK224CCTK22UTIL01J.html(Cited in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170210/1486695468

さて、5月13日付けの記事;

西郷隆盛の曽孫が同窓会構想 西南戦争で分断の藩士子孫

町田正聡

2017年5月13日08時59分


 西南戦争で断ち切られた薩摩藩士の絆を結び直したい――。西郷隆盛の曽孫(ひまご)で陶芸家の西郷隆文さん(69)=鹿児島県日置市日吉町=が、幕末・明治の藩士の子孫同士で集い、語り合う「同窓会」の構想を練っている。明治維新から150年の節目を迎える来年の実現を目指している。

 薩摩藩士の「分断」になったのは、1877(明治10)年に西郷隆盛篠原国幹村田新八桐野利秋らが率いる薩摩軍が、明治新政府に対して挙兵した西南戦争だ。

 新政府側には、西郷の盟友である大久保利通や幼少期からの親友吉井友実、後に内閣総理大臣になる黒田清隆、初代警視総監を務める川路利良らがおり、西郷の実弟である西郷従道、いとこの大山巌もいた。

 肉親や友人が敵味方に分かれた戦いは、新政府軍の勝利で終わった。

 隆文さんは「勝ち負けに関係なく双方に負い目やわだかまり、しこりのようなものが残ったのではないか」ととらえている。幼い頃に両親らから、西南戦争の後、新政府側だった人の中には「もう鹿児島には帰れない」と、先祖の墓とともに鹿児島を去った人が多かったと聞いた。また、戦争で夫や息子らを失って暮らしが困窮し、新政府の人たちを責める薩摩軍の遺族もいたという。

 「あの時代、どちらも大変な目に遭い、大変な思いをした」と隆文さん。維新から150年を迎える今、子孫が鹿児島に集って語り合い、先祖に代わって「仲直り」する場を設けたいとの思いを募らす。

 隆文さんが理事長を務める「NPO法人西郷隆盛公奉賛会」が31日に総会を開催。実行委員会を結成し、具体的な進め方を検討する。所在がわからない人も多いため、子孫の間のつてをたどって連絡先を調べる。

 隆文さんは「西郷も同窓会を開くことに『よか、よか』と言ってくれるのではないでしょうか」と目を細めていた。(町田正聡)
http://www.asahi.com/articles/ASK4S329XK4STLTB001.html

西郷隆盛奄美大島に流されていたときに現地の女性との間に2人の子どもを作っているけれど、西郷隆文氏はその子孫ということになる。また、鹿児島に帰ってからできた嫡男の寅太郎は父親の名誉恢復後に侯爵に叙せられている。寅太郎の子どもに西郷吉之助というのがいて、戦前は(侯爵として)貴族院議員、戦後は自民党参議院議員を務めていたのだが、まあとんでもない政治家であった。(日本語文法上はかなり問題がある)Wikipediaからコピーすると、

第2次佐藤内閣(1968年(昭和43年))では法務大臣を歴任した。大臣任期中の1969年(昭和44年)、かつてGHQ占領下で起訴された死刑囚の再審を規定した再審特例法案が提出されて廃案になった際に、6件7人の死刑囚に対して恩赦の検討を表明し、結果3人が無期懲役への減刑がなされた。

この頃より手形を乱発して債務は当時で4億円近くまで膨らみ債権者が騒ぎ出したため、西郷はその頃えせ同和行為で羽振りの良かった尾崎清光と繋がり、私設秘書や在日朝鮮人暴力団などを使って議員会館内で債権者に暴力や恐喝を行う事件を起こし、その容疑は国会でも問題にあがり、西郷は自由民主党を離党している。

後にも西郷の秘書たちが、立場を利用して入港する船舶検査に手心を加えるよう各所に電話する日々であった、などと月刊誌『正論』にて証言したり、逮捕収監されていた暴力団員の刑の停止に力を貸していた、などの不義行為が曝露されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%90%89%E4%B9%8B%E5%8A%A9

ここに名前が出てくる尾崎清光*1にしても吉之助にしても、まあ昭和の悪人はスケールが大きかったねということなのだが、彼は1997年まで生きているのだった。1973年に政界を去るのだが、Wikipediaにはその後の晩年についての記述はない。
別の側面から見ると、西郷家を表わす鍵言葉は〈名前の混乱〉といえるかも知れない。上野の山にいる西郷隆盛*2は実は西郷隆永だった。「隆盛」は隆永の父親の名。明治になってから誰かが間違って父親の名を登録してしまったが、本人も気にせずに父の名を名乗り続けたらしい。また、隆盛(隆永)の孫であるトンデモ政治家の「吉之助」は 隆盛(隆永)の通称。だから、「吉之助」というと、祖父なのか孫なのかで混乱してしまう。また、孫の悪行が言及されると、自動的に祖父も想起されてしまうということになる。