向田邦子『父の詫び状』

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

新装版 父の詫び状 (文春文庫)

向田邦子『父の詫び状』*1を読了したのは1週間くらい前。


父の詫び状
身体髪膚
隣りの神様
記念写真
お辞儀
子供たちの夜
細長い海
ごはん
お軽勘平
あだ桜
車中の皆様
ねずみ花火
チーコとグランデ
海苔巻の端っこ
学生アイス
魚の目は泪
隣りの匂い
兎と亀
お八つの時間
わが拾遺集
昔カレー
鼻筋紳士録
薩摩揚
卵とわたし


あとがき
解説(沢木耕太郎

向田邦子がこの本の原型となる連載エッセイを書こうとした動機について、「気張って言えば、誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状を書いて置こうかな、という気持もどこかにどこかにあった」と述べていることはマークしておくべきだろう(「あとがき」、p.283)。彼女は「乳癌」の手術をし、「退院してしばらくは、「癌」という字と「死」という字が、その字だけ特別な活字に見えた」(「あとがき」、p.282)。「その頃、私は、あまり長く生きられないのではないかと思っていた」という(p.283)。また、彼女は読者が「暗い」という感想を寄せてくるのではないかと「恐れ」ていたという(p.284)。
ここで語られている彼女の思い出の中には勿論徹底的に暗くて重いものもある。しかし、暗いことは暗いのだが奇妙な軽みや滑稽さが絡みついた仕方で語られる思い出も多い。例えば、「ごはん」で語られる昭和20年(1945年)3月10日の「東京大空襲」の記憶。その書出しの部分を少し写してみる;

三月十日。
その日、私は昼間、蒲田に住んでいた級友に誘われて潮干狩に行っている。
寝入りばなに警報で起こされた時、私は暗闇の中で、昼間採ってきた蛤や浅蜊を持って逃げ出そうとして、父にしたたか突きとばされた。
「馬鹿! そんなもの捨ててしまえ」
台所いっぱいに、蛤と浅蜊が散らばった。
それが、その夜の修羅場の皮切りで、おもてへ出たら、もう下町の空が真赤になっていた。我家は目黒の祐天寺のそばだったが、すぐ目と鼻のそば屋が焼夷弾の直撃で、一瞬にして燃え上がった。
(後略)(pp.91-92)
そして、火が迫る中、自宅の中を見廻るために、「生まれて初めて靴をはいたまま畳の上を歩」き(p.94)、「開放感」と「居心地の悪さ」が入り混じった感覚(p.90)を覚える。
ところで、「あとがき」に車谷弘*2という人名が出てくる。車谷長吉*3と親戚なのか同族なのかはわからない。ただ、車谷弘を語る向田邦子の文は印象的である;

ところで、「銀座百点」に私を推輓して下さったのは、車谷弘氏(文藝春秋相談役)である。私は車谷氏にも病気のことを申し上げなかった。連載が終った時に報告してびっくりさせて差し上げるつもりでいた。ところが、車谷氏は病を得て入院なさった。風をこじらせた、ということであったが、人伝てに伺う病状から、肺という字の下に、私と同じ病名がつくのではないかと察せられた。そうなると何も言いだせず、お見舞いも出来ないままで、氏はこの四月*4亡くなられ、私としてはお礼を申し上げる機会を永遠に失ってしまった。これだけは心残りである。(p.284)