『朝日新聞』の記事;
私自身がお伊勢参りをしたときもそうだけど、普通は外宮と内宮の間はバスとかに乗って移動するのであって、サミットに参加する「各国首脳」がのこのこと「 御幸道路」を歩くわけはないだろう。
伊勢神宮近くの石灯籠、32基撤去へ サミット控え原篤司
2016年1月30日05時07分
三重県は、伊勢神宮の内宮と外宮をつなぐ「御幸(みゆき)道路」沿いの石灯籠(どうろう)418基のうち、ぐらつきなどがある32基を2月中旬に撤去する。「5月の伊勢志摩サミットの最中に倒れたら一大事」(担当者)のためだ。県によると、石灯籠は高さ約2・5〜6メートルの4種。1960年代にかけ関西財界人らが主導した伊勢三宮奉賛献灯会が寄付を募り建てた。64年ごろの同会解散後は、数年に1度の道路占用許可が更新されず不法占拠状態。かつての寄付者の名が彫られるが、今や所有者も管理者も不明だ。
県は2013年に老朽化で5基ほどを「略式代執行」で撤去。サミットを控えた再調査で揺らすと動くものがあった。各国首脳が通るかもしれない御幸道路で安全や美観のため工事が進む中、追加で撤去することを決め、29日に対象32基に告知文を貼った。
申し出がなければ2月16日に撤去を始める予定。壊したり捨てたりはできず県有地に置くが、「いつまで保管するかは検討課題」と担当者は話す。(原篤司)
http://www.asahi.com/articles/ASJ1Y55TPJ1YOIPE01B.html
それはともかくとして、「伊勢三宮奉賛献灯会」の「三宮」って参宮の変換ミスじゃないの? 「三宮」って外宮、内宮、あとは何処よ? と思って、検索してみたけど、どうやら「伊勢三宮奉賛献灯会」というのは正しいようだ。「三宮」は外宮、内宮、(内宮の別宮である)伊雑宮*1の「三宮」。
「 数年に1度の道路占用許可が更新されず不法占拠状態」、「今や所有者も管理者も不明だ」というが、事態はそんな単純なことではないようだ。Wikipediaの「御幸道路」の項には以下のように記載されている;
ところで、「伊勢三宮奉賛献灯会」や「伊雑宮」を鍵言葉にして検索をかけると、かなり香ばしいソースが上位で引っかかるのだった。例えば、
灯籠の設置と責任の曖昧化
1955年(昭和30年)3月5日、外宮と内宮および内宮の別宮である伊雑宮を結ぶ道路に石灯籠を設置することを目的とした「伊勢三宮奉賛献燈会」(以下、献燈会とする)が設立され、日本全国から献灯者を募集した。献灯者には歴代内閣総理大臣や財界の有力者も名乗りを上げた。同年12月1日には献燈会が三重県知事と伊勢市長に対して道路占用許可を申請し、灯籠が設置された。灯籠には、吉田茂や池田勇人ら献灯者の名が刻まれた。その後、献燈会は1960年(昭和35年)4月1日に占用許可の更新を県知事に申請したが、未処理のまま時が流れ、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)にかけて献燈会関係者が死去し、事実上献燈会は解散状態となった。献燈会解散後の1968年(昭和43年)頃、「伊勢神宮献灯籠保存会」(以下、保存会とする)が設立され、1975年(昭和50年)11月18日、国道23号拡幅のために灯籠を移設することになり、保存会は伊勢市長に豊川浦田線交通広場(宇治浦田街路広場)の一部使用許可を申請した。
進まぬ管理交渉
1977年(昭和52年)8月5日、保存会は伊勢商工会議所と今後の灯籠の管理について協議を行い、同年10月18日には伊勢市観光協会を含めた三者で協議が持たれたが、具体的な進展はなかった。1982年(昭和57年)には伊勢市当局が三重県や日本国の関係機関と灯籠に関する対策協議会を設置したが、ここでも成果を得ることができなかった。こうした中、伊勢市駅前から外宮前の道路(三重県道37号鳥羽松阪線)を4車線化するにあたって灯籠48基を移設することについて議論が行われたが、補強工事を行うことでそのままの位置での保存が決定した。1989年(平成元年)には6月、9月、12月の三重県議会土木常任委員会の場で灯籠をどうすべきかが議題に挙げられた。1993年(平成5年)には神宮式年遷宮に合わせ、暫定的に表面の修復が行われた。1995年(平成7年)と2000年(平成12年)には国・県・市の三者協議が持たれたもののやはり事態の進展はなく、保存会との折衝は進まなかった。
2006年(平成18年)、遅々として進まなかった議論が動き出す。3月22日に保存会と「社団法人神宮環境振興会」(以下、振興会とする)の間で灯籠の管理等に関する合意書が締結されたのである。4月26日には振興会が神宮会館で会見を開き、灯籠の補修と周辺民有地の買い上げについて目途がついたと表明した。これにより、行政当局は交渉相手をようやく確定することができた。そして8月8日の伊勢市議会産業建設委員協議会において、「伊勢らしい良好な景観形成及び観光振興その他地域の活性化に資する」ために引き続き灯籠を設置すること、振興会に既存の灯籠を撤去させ、耐震性を確保した上で新しい灯籠を設置させることを決定した。この時、既存の灯籠は震度5強程度の地震、風速40m/s以上の暴風、自動車による衝突で倒壊する可能性があることと、国道・県道区間の道路占用許可が既に満了し放置されていること、市道区間については占用許可が「永続的」になっているものの占用者が解散した献燈会であるため責任者が不在であることが公表された。
2007年(平成19年)4月23日、伊勢市経営戦略会議において伊勢市としての灯籠に関する以下の3つの方針を示した。
伊勢らしい良好な風景を形成していく目的で建てられる場合は、景観形成という公益性の観点から認めていく。
新たな灯籠型街灯の設置にあたっては、安全性の確保を最優先とし、現在のものの撤去を最優先とする。
新たな灯籠型街灯の設置基数は、現在の基数を超えないこととする。灯籠の新設の目途が付いたことから、2007年(平成19年)8月20日、伊勢市は伊勢市観光協会に対し道路占用許可を出した。
事態の展開
これにて灯籠問題が決着するかに見えたが、2009年(平成21年)8月19日に振興会は三重県から解散命令を受けてしまい、灯籠問題はまた振り出しに戻ってしまったのである。伊勢市観光協会は翌8月20日に道路占用廃止届を提出した。解散命令は振興会が最低でも3億5900万円に上る粉飾決算をしていたことが明らかになったためであり、三重県が解散命令を発令するのは戦後初の出来事であった。時の伊勢市長である森下隆生が灯籠の建て替えを推進したことで振興会に寄付が集まっていた面もあるため、伊勢新聞は森下市長の責任も問われかねないと報じた。結局、森下市長は灯籠問題とは別件の中部国際空港海上アクセス事業を巡る問題で同年10月7日に辞任した。その後、2010年(平成22年)8月13日に「一般社団法人伊勢の国」と「一般社団法人神宮景勝保全会」の連名で道路許可申請が提出されたが、伊勢市は耐震性や灯籠の管理などの不備を指摘し、同年10月25日に通知を行った。
2012年(平成24年)度の三重県に対する包括外部監査の報告書では、県が占用許可が失効した時点で献燈会に対して改築や撤去等の指導をしなかったことについて「占用許可をするか撤去等の請求をすべきであった」と記し、不法占用状態にある灯籠の所有者を早期に確定すべきと記している。2013年(平成25年)5月15日より、三重県は県道部分にある灯籠425基の安定性調査を開始、6月20日に終了した。同年に開催される神宮式年遷宮による参宮客増加が想定されることから、安全性の確保のために始めたもので、県の調査に続いて6月10日と11日に伊勢市が、6月10日と18日に国土交通省中部地方整備局三重河川国道事務所が、それぞれ市道・国道にある灯籠を1基ずつ手で触れて調査した。その結果、ただちに撤去すべき灯籠は見つからなかったが、一部ぐらつきのあるものがあり、上部を取り外す作業が行われた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%B8%E9%81%93%E8%B7%AF
「伊勢神宮の石灯籠はフリーメイソンの仕掛けであった」http://www.millnm.net/cgi-bin/page.cgi?url=../qanda3/40syny0JRBnAY87787.htm
「伊雑宮が本当の伊勢神宮だった!」http://ameblo.jp/aries-misa/entry-11477187991.html
まあ、これも或る種の「伝統の捏造」*2だね。なお、
「ユダヤと伊勢神宮 ★ガセ情報にご注意★」http://ameblo.jp/hex-6/entry-10726769320.html
こっちの方は批判的エントリー。
今回も検索とかをしているうちに最初の関心からかけ離れてしまった。最初に興味があったのは、この「伊勢三宮奉賛献灯会」というのは多分法人格を持った団体ではなく、ただの任意団体だったと思うのだけど、任意団体というのは経済行為もできず、財産を所有することができないのではないか? それは出資者の共有財産ということになる? 石灯籠には「かつての寄付者の名が彫られ」ているなら、石灯籠は「寄付者」たちの共同所有に帰するのでは? ということ。