偶然だけど

月曜日、デヴィッド・ボウイの死*1を知ったのは、須賀敦子さんの「分身」についての文章*2を抜書きした後だった。須賀さんの文を写していたとき*3は当然ながらボウイの死は知らなかった。でも、「カメレオン」ともいわれたように、ボウイは「分身」の構築或いはキャラクター演技を意識的且つあからさまに行った人である。これが意味を持つのは、近代文化の核の部分には〈誠実〉とか〈正直〉の美名の下の抑圧的な〈すっぴん至上主義〉とでもいうべきものがあるからだ*4。主流に抗すべき対抗文化においても、やはり主流(体制)の欺瞞や偽善を誅するという美名の下、この〈すっぴん至上主義〉がラディカル化される傾向もあった。ロックも例外ではない。オトナ(社会)の欺瞞に対する若者の本音、とかね。ところで、〈すっぴん至上主義〉の破壊者をもう1人挙げるとすれば、ボブ・ディランだろうか(Cf. 湯浅学ボブ・ディラン――ロックの精霊』)。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160111/1452529920

*2:「『インド夜想曲』と分身」(in 『塩一トンの読書』、pp.38-42)。

*3:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160111/1452487782

*4:或いはヌーディズム、或いは本音至上主義。