次はみき伝を!

栗原康「私たちの闘い 自分で動く:1 踊れ、あばれろ、汗ダラッダラ」http://book.asahi.com/reviews/column/2017080600001.html


栗原康という人も去年辺りから気にはなっていたのだが、まだその本を読んだことはない。
曰く、


ドンドンバシバシ、ピーヒョロロ。盆踊りの季節がやってきた。音につられてのぞきにいけば、ジイさんもバアさんもギャルもサラリーマンも、みんな汗ダラッダラ、我を忘れておどってる。いつもイバってるやつだって、頭はガクガク、手足はグニャッグニャ。ひととして、はずかしい格好だ。でも自信たっぷりで、ちええっ、ちええっとさけんでる。こいつは猿か、バカなのか。そうおもってる自分も、気づけば輪にはいっている。ちええっ、ちええっ。オレも猿だ、バカなんだ。
 ふだん、わたしたちは仕事でもプライベートでも自分はつかえるやつだ、よくみせなきゃとおもわされている。SNSでいいね、いいね。できなければクズあつかい。でもひとたびおどっちまえば、そんなのどうでもよくなっている。むしろはずかしい、なんの役にもたたない身体のうごきに夢中になってしまうのだ。たまんねえ。無能な身体に、小躍りして酔いしれる。鎌倉時代、盆踊りの起源、踊り念仏をひろめた一遍は、それが仏になることなんだといっている(『一遍上人語録』)。現世の価値にしばられない、なんにもとらわれない身体を手にしてるのだから。この世はクソだ。他人の評価はどうでもいいね、好きなことしかできやしない。クズの本懐、仏である。
そんなアゲアゲの「盆踊り」なんてあるのとは思った。このテクストの下の方で『大杉栄評論集』が取り上げられているけれど、この人が大杉栄の研究家だということくらいは世間知らずの私でも知ってはいる。それが何故一遍上人*1なの? 一遍上人の伝記を上梓したのね*2。それ自体、思想史的或いは知識社会学的な意味があることだと思った。明治以降、鎌倉仏教の祖師の中で知識人が傾倒するのは先ずは親鸞だった。悩める親鸞吉本隆明*3野間宏も。右にせよ左にせよ〈政治〉志向が強い人の場合は日蓮。哲学志向が強いと道元。そういう中において、一遍は知識人たちからは寧ろ避けられていた。親鸞日蓮が堅持していた日本的なるもの(神祇)との緊張関係をなし崩しにしてしまったとか。ポストモダンなんだなと言ってしまおう。栗原氏には次は、天理教の教祖中山みきの伝記を書いていただきたい。
一遍上人語録 (岩波文庫 青 321-1)

一遍上人語録 (岩波文庫 青 321-1)

大杉栄評論集 (岩波文庫)

大杉栄評論集 (岩波文庫)