堀江敏幸『未見坂』

未見坂 (新潮文庫)

未見坂 (新潮文庫)

堀江敏幸*1『未見坂』(新潮文庫)を読了。


滑走路へ
苦い手
なつめ球
方向指示
戸の池一丁目
プリン
消毒液
未見坂
トンネルのおじさん


解説 なつかしさに浸される(小野正嗣

この本は9篇の独立した短篇小説からなるが、どれも架空の、しかも名前が与えられていない、山間部に近い地方の小都市*2を共通の舞台としている。
この本を読んでいて、まず印象に残ったのは、(全部ではないけれど)主人公が地の文で(語り手によって)「さん」づけで語られていることだった。「苦い手」の「肥田さん」、「方向指示」の「三郎助さん」や「修子さん」、「戸の池一丁目」の「泰三さん」、「プリン」の「悠子さん」、「消毒液」の「靖子さん」、「未見坂」の「彦さん」。この「さん」づけによって、語り手と登場人物の間の或る種の親密性が喚起される。そして、登場人物とこのように親密性を保った語り手っていったい誰なのだろうかという疑問も頭を擡げてくる。「消毒液」の場合は、その語り手が(未来の)「陽一」だなということは見当がつくが、ほかの小説では、誰が「さん」をつけて語っているのか、依然として謎のままだ。
小野正嗣*3の「解説」から引用してみる。

本書に描かれている短編を、あたかも自分の物語であるのかのように読者が思い出すときに、そのなつかしさに、どこか切なさがしみ込んでいるように感じられるのはどうしてなのだろう。それはすべての短編が、私たちのひとりひとりの物語と同じように、「喪失」や「危機」をかかえ込んでいるからにちがいない。「なつめ球」、「戸の池一丁目」、「トンネルのおじさん」の各編の少年たちがこの土地に来たのは、両親のあいだに何らかの問題が生じたからである。「滑走路へ」の少年には父親がいないし、その友人の父親は交通事故によって半身の自由を奪われている――「お医者さんはもう治らないかもしれないって」。「苦い手」の主人公である肥田さんという中年男は母と二人暮らしで、その上司の秋川課長は最愛の娘を癌で失っている。「方向指示」の理容師、修子さんは父親をなくし、母親は交通事故にあって入院中である。「消毒液」の陽一少年の母親もまた、「原因のよくわからない病気」で入院している。(pp.264-265)