正福寺から子安神社

3月の末に習志野市藤崎の藤崎山正福寺(真言宗豊山派*1と子安神社の周辺を歩いた。
子安神社については、


慶長19年(1614)1月に徳川家康は、東金辺での鷹狩りにため、船橋御殿で休憩した後、東金に向かいました。

船橋を出たところに集落(藤崎村)があり、この集落にある子安神社で休みました。この神社は、治承4年(1180)4月の創建で、祭神は速須佐之男命(はやすさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだのひめのみこと)であり、大正15年(1926)の『千葉郡誌』には、

<古木鬱蒼(うっそう)として昼なお暗く、袖ヶ浦の眺め、又、一しほなり。>

とあり、高台にある境内には樹木が生い茂り、ここからの眺めは素晴らしかったといいます。

この神社で休憩した家康は、境内に見事に咲いている藤の花を眺め、この集落を「藤咲」と名付けたといわれています。(拙書『調査研究房総の東照宮』暁印書館より)
(「徳川家康が休憩した子安神社(習志野市藤咲)」http://bousou.txt-nifty.com/blog/2007/07/post_7437.html

また「習志野市の神社」という頁に曰く、

子安神社【習志野市藤崎】
ご祭神は「速須佐之男(ハヤスサノオ)命」と「奇稲田姫クシナダヒメ)命」の夫婦神二柱をお祀りする。境内碑文によれば高倉天皇の御代、治承4年4月創建とある。本殿流造、神紋は「三ツ巴」。狛犬天保4(1833年)巳歳9月吉日とある。昭和57年再建。幼稚園の時の友達がこの神社脇に住んでいて遊びに行った思い出があるのだが、その時の神社は本殿のみの小さな神社であったような記憶がある。(習志野市藤崎1-4-9)
http://www14.plala.or.jp/nikorobin/narasino.html

裏から見た正福寺。

正福寺の境内は道路によって分断されている。道路の東側にあるのは観音堂と公孫樹。


子安神社は正福寺の裏山を南にちょっと進んだところにある。正福寺(観音堂)の裏道。

子安神社*2

子安神社の前の道を100メートルほど北に進んだところにある「日露戦役紀念碑」。
小学校の頃、正福寺の辺りは世界の或る種のリミットだった。それはひとつには、小学校の学区の果てだったからだ。その当時、学区の外に子どもだけで行くことは禁止されていた。それとともに、正福寺から先には津田沼の方までだだっ広い田んぼが拡がっていた。今もその雰囲気は残っているが、この辺りは、同じ市内でありながら、〈原住民〉が住んでいる場所として、自分が住んでいる新興住宅地とは明らかに空気が違っていた。
ところで、正福寺と子安神社の関係はわからないのだった。神仏分離以前に子安神社の別当寺だったかどうか。