荘子と現代中国(メモ)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

『荘子』―鶏となって時を告げよ (書物誕生―あたらしい古典入門)

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

荘子 第1冊 内篇 (岩波文庫 青 206-1)

荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2)

荘子 第2冊 外篇 (岩波文庫 青 206-2)

荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)

荘子 第3冊 外篇・雑篇 (岩波文庫 青 206-3)

荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)

荘子 第4冊 雑篇 (岩波文庫 青 206-4)


中島隆博氏の『『荘子』――鶏となって時を告げよ』では近代中国における荘子解釈として、胡適、馮友蘭、魯迅の解釈が採り上げられている*1
さて、


劉再復*2「現代荘子的坎坷與凱旋――《荘子的現代命運》中文版序」『書城』2012年6月号、pp.44-48


メリーランド大学の劉剣梅(Jianmei Liu)*3は近々『荘子的現代命運』を、英語版・中国語版同時に上梓するという。上掲の劉再復氏のテクストはその「中文版」への序文。
少しメモ。
「幸而有荘子”個人自由”思想的補充、才使中国人有思想喘息*4和自我伸長的哲学根拠」(p.45)。


剣梅緊緊抓住荘子的”重個体、重自由”的特点、認定荘子的存在是中国知識分子尤其是中国作家的幸運。而荘子的現代命運実際上也正是”個人自由”、”個性飛揚”精神在現代中国的命運。剣梅還認為、《斉物論》和《逍遥遊》是荘子真正的代表作、前者論平等、後者論自由、両者在二千五百年前分別占領了人類世界”平等”與”自由”的思想制高点、而両者之中、《逍遥遊》更是核中之核、属於荘子的”第一精神”。(ibid.)。

(前略)従荘子在”五四”新文学運動中被謳歌(被郭沫若尊為與斯賓諾莎同等地位的汎神論者)一直到上世紀下半葉荘子被”専政”以及八十年代後的回帰與凱旋這一線索勾勒相当清楚、而在被謳歌與被専政的歴史時期中、一些現代作家也曽做過荘子夢、但這些烏托邦均一一破滅、這也反映了個性精神在中国缺乏生長条件。荘子夢只能演化為悲劇。在剣梅筆下、荘子的現代命運史折射的正是個体自由精神的命運史。(pp.45-46)
1949年以降の「荘子的厄運」は「関鋒的政治審判」と「劉小楓的宗教裁判」に分けられる。前者は、関鋒によって荘子が「没落奴隷主階級」の「代言人」という帽子を被されれてしまったことを指す(p.46)。このような「荘子的厄運」は文化大革命終結とともに終了したが、改革開放時代に入って、哲学者の劉小楓*5がその著作『拯救與逍遥』において基督教的な「絶対尺度」を以て中国文学史を批判し、「荘子精神的文学精華」である「逍遥価値」を持った人々、荘子陶淵明、曹雪芹などをおしなべて「罵倒」した(p.47)。それに対して、

剣梅在劉小楓的商榷中認為、中国的逍遥精神即自由精神、固然缺少基督那種”擁抱苦難”的崇高救世情懐、却有通過”自救”而在更高的精神層面上対人世的関懐。這除了具有”独善其身”的道徳意義之外、還有”良知拒絶”的正義意義以及贏得個体時空進行精神価値創造的審美意義。総之、剣梅不僅把”逍遥”看成一種充当”局外人”的消極自由的存在形式、而且看成審美創造的一種積極自由的存在形式、也就是説、”拯救”有其存在的理由、”逍遥”也有其存在的理由。(略)東方曽用荘子貶斥基督、西方也不可用基督審判荘子。(後略)(ibid.)
荘子的現代命運』で論評の対象となっているのは、魯迅郭沫若胡適、周作人、林語堂、廃名、施蟄存、沈従文、汪曽祺、阿城、韓少功、閻連科、高行健などであるが、「高行健荘子的凱旋」という章で締め括られているという。

高行健在中国現当作家中対荘子的認識多的確最為徹底、他的小説《霊山》以及所有的劇本、乃至詩歌、電影創作、其核心精神只有一個、這就是求得大自在即求得大自由的精神。高行健把自由視為人自身的一種”覚悟”、自由不是他給的、也不是上帝賜予的、而完全是”自給”的。意識到(覚悟到)自由可以自己把握才有自由。高行健荘子的個体飛揚精神充分意象化、充分文学化與藝術化。他的作品不僅”回帰自然”、而且”創造自然”――創造了一個擁有逍遥可能、自在可能的精神世界。高行健的成功、倒真的荘子的凱旋。(pp.47-48)
霊山

霊山

また高行健*6については、


「走出二十世紀――高行健劉再復対談」『明報月刊』2008年7月号、pp.54-60


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