Chico Harlan “In Japan, fax machines remain important because of language and culture” http://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/in-japan-fax-machines-find-a-final-place-to-thrive/2012/06/07/gJQAshFPMV_print.html
インターネットのご時世になっても日本においてファックス・マシンは不滅ですという記事。
日本の世帯の59%がファックス・マシンを保有していることに、「ファクシミリの歴史の専門家」(!)であるJonathan Coopersmith氏*1が驚いている。(最盛期の)1990年代前半でさえ、全米の世帯の3%しかファックス・マシンを保有していなかった。ただその理由づけに関しては、かなり??な説明となっている;
ブロードバンド料金の話はさて措いて、日本語入力問題について言えば、「1990年代初頭まで日本語は殆どタイプ不可能だった」ということはありえない。1980年代後半から90年代前半というのは〈ワープロ専用機〉の全盛時代だったのだ。日本でPCの普及が遅れたのはワープロ専用機が成熟しすぎたからだとも言える。世の中の草木がインターネットへと靡き始めた頃、コンピュータで日本語を書くという経験は高齢者にも拡がっていたのだ。その時代、ワープロで文書を作成し、それをプリント・アウトして、さらにファックスで送信するというのが普通だったのではないか。だから(少なくとも日本においては)コンピュータ(ワープロ)とファックスというのは相互排除的なものではなかったわけだ。現在の時点から振り返って奇異に感じるのは、ワープロ専用機全盛の時代、電子データを共有するという発想が全くなかったということだろう。ワープロのデータというのは機種によって全く互換性がなく、互換性をつくろうという動きも(管見の限りでは)なかった。
In most places, computers ― and by extension, e-mail ― quickly made the fax machine unnecessary. But in Japan, that transition has not happened.One reason is that computers, at the outset, never worked well for the Japanese. The country’s language ― a mix of three syllabaries, with thousands of complex “kanji” ideograms ― bedeviled early-age word-processing software. Until the early 1990s, Japanese was nearly impossible to type. Even today, particularly for older Japanese people, it’s easier to write a letter by hand than with a standard keyboard. Japan also relies on seals, called “hanko,” that are required for most official documents.
While the typing difficulties also apply to China, the country never got stuck in the fax stage, tech experts say.
Another factor in Japan: The government’s long-standing monopoly on phone lines kept high-speed digital Internet rates relatively high ― particularly compared with South Korea, where the government promoted cheap broadband use.Largely because of these hurdles, the Japanese developed a preference for surfing the Web on their mobile phones .
“A lot of homes just are not connected to the Internet,” said Andrew Horvat, a communications expert and the director of the Stanford overseas study program in Kyoto. “They all have phones, however, so that also makes faxing easier and cheaper than online communication.”
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100315/1268678079 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100425/1272126288
中国に関して言えば、1990年代前半には固定電話もない世帯も多かったわけで、それがいきなりケータイとインターネットの時代に突入してしまったということだろう。
この『ワシントン・ポスト』の記事を紹介している冷泉彰彦氏*2曰く、
まあtangibleを「目に見える」と訳すのは視覚至上主義的なバイアスがかかっているんじゃないかとも言えるのだけど、それはともかくとして、話がちょっと違うような気がする。日本は「哲学や思想に関しては国際的な影響力を持つものは生んでいない」かどうかに関しては、西田幾多郎*3の名前を挙げればそれでお終い。また日本における「文書」至上主義に言及して、
背景には、日本のカルチャーというのは「目に見える(タンジブル)」なものの取り扱いは得意だが、「目に見えない(インタンジブル)」なものの取り扱いは苦手という特徴があると思います。浮世絵から現代美術、マンガに至るビジュアルアートの伝統は豊かであるのに、哲学や思想に関しては国際的な影響力を持つものは生んでいないとか、産業においてもハードウェアにやたらにこだわってソフトの価値は軽視しているというのもこの特徴を表しています。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/06/post-444.php
と言う。これは所謂〈官僚制〉一般の特徴でしょ。文化論レヴェルでの反証としてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090225/1235577052
目に見えない「信頼」とか「理解」、つまり英語で言う「ミューチュアル」なという概念が非常に弱い一方で、目に見える「契約書」とか「議事録」など、それも「写し」や「控え」ではない「原本」に異常に執心するというのも、こうしたカルチャーの影響だと思います。原発事故をめぐる混乱の中で、「議事録がなかった」とか「改ざんされた」ということが大騒ぎになったのがいい例です。つまり、いかに公職にある人間の公の場の発言であっても、口に出しただけでは「オフィシャルな発言」として絶対的な重みを持つのでは「ない」わけで、目に見える「議事録」の「原本」に記載されないと効力を持たないわけです。
*1:http://history.tamu.edu/faculty/coopersmith.shtml
*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080814/1218732998 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100517/1274063531 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100913/1284394468 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110203/1296712681 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120117/1326765580
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050716 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070127/1169872420 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081223/1229999732 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091204/1259903793 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100823/1282561430 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110212/1297527735