承前*1
畑中三応子「拡大するファッションフード2 和洋中エスニック林立――多国籍化の時代」(『スクリプタ』(紀伊國屋書店)17、2010、pp.28-38)の続き。
先ず1970年代中頃に青梗菜、空心菜などの中国野菜が日本国内で最初に栽培されたのは千葉県柏市だったことを知る(p.31)。
次に、1980年に渋谷に「飲茶」専門店「陶陶居」が開店し、「香港スタイルの飲茶」が流行したとされる(ibid.)。しかし、これは全然記憶がない。私が「飲茶」に親しんだのは1989年から1年間中国南部の広東語地区に住んだとき。当地では、モーニングを強調して「早茶」と呼ばれていたけど。ただ、「飲茶」は香港でも絶滅寸前で、2007年に香港に行ったときには、既に数件しか残っていなかったのだ。畑中さんは「飲茶を通して中国茶の効能を知った人も多」いと述べているが、これもどうなのだろうか。以前も書いたように、日本人に中国茶を知らしめたのは何よりも1970年代にサントリーが罐入りの烏龍茶を売り出したことであり*2、それ以降日本では中国茶=烏龍茶というイメージが固定してしまったといえる*3。香港式といえば普洱茶だろうけど、日本で普洱茶は未だにマイナーなままだろうと思う。因みに、「点心」はテンシンでもディエンシンでもなく、広東語式にディムサムと読むべし。
さらに、「台湾屋台料理」(pp.31-32)。本文にもあるように、東京では「台南担仔麺」というチェーンが有名で、私が初めて「台南担仔麺」に入ったのは1988年のことだったけれど、日本でのオープンが何年だったかは知らない。また、畑中さんは「台湾屋台料理で紹興酒に目覚めた日本人は多いはずだ」と述べる(p.32)。これもどうか。80年代中頃には既に普通の中華屋は紹興酒を置いていたと思うのだ。それよりも、紹興酒に氷砂糖を入れて飲むという習慣がどのようにして日本に伝来したのかということの方が謎。