龍馬熱

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20101009/p1
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20101010/1286683613


坂本龍馬*1という歴史的人物というよりは、坂本龍馬に対する現代人のアイデンティフィケーションを巡るエントリー。
Apeman氏のものは、龍馬に対するアイデンティフィケーションは「成熟拒否の表れ」という精神医学者、野田正彰氏の論を紹介したもの。
上田亮氏のものは、既存の教育制度と反りが合わない「純真無垢で天真爛漫」或いは「直感型の天才」という龍馬のイメージを指摘している。小山ゆうの『お〜い!竜馬』がそのような龍馬イメージの構成に大きな力を持っていたのか。
まあ一般的にいうと、あらゆる革命は〈裏切られた革命〉であるといえる。革命は常に〈こんな筈じゃなかった!〉と形容される。粛清や腐敗や妥協等々。仏蘭西革命も露西亜革命も辛亥革命キューバ革命も例外ではない。「大衆も知識人も政治家も財界人も左翼も右翼も〈革命〉が好きなのだ」ということはある*2。ここでいう「〈革命〉」とは具体的に言えば「明治維新」。勿論、「明治維新」が他の殆ど全ての「革命」と同様に〈裏切られた革命〉だったということはみんな感じているだろう。とすれば、体制側・支配者側に移行して大出世した人たちにアイデンティファイするわけにはいかない。とすれば、アイデンティフィケーションの対象は限られてくる。旧体制が打倒されて、「革命」が新たな体制として安定を得る以前に(必ずしも粛清によるわけではないが)命を終えた人々ということになる。打倒以前だと、例えば吉田松陰、それから高杉晋作。打倒以後でいうと、坂本龍馬、それから西郷隆盛などということになる。勿論人格的な資質の問題もあるのだろうけど、その当の〈人格〉というのがアイデンティフィケーションを前提として、様々なメディア(小説、歌、映像等々)を通じた語りや表象によって構築されたものだったりする。だから、坂本龍馬が人気があるというのは当然といえば当然だといえるだろう。〈裏切られた革命〉以前なのだから。
それはそうと、坂本龍馬が主人公の映画ということで、再度黒木和雄*3の『竜馬暗殺』をマークしておく。勿論、これも司馬遼太郎などによって構築された既存の龍馬キャラクターに乗っかってはいるのだが、それが撮影された「どこか〈ええじゃないか〉的な陽気で(或る意味無責任な)1960年代の反体制運動が衰退し、連合赤軍による〈同志殺し〉が発覚し、内ゲバ戦争が前面化した時代」*4を反映した暗さや閉塞感が画面に満ちて、それが作品の迫力とリアリティを支えている。

竜馬暗殺 [DVD]

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さて、小島毅氏曰く、


(前略)「大河がホームドラマになってしまった」ということである。制作側すなわちNHKが、原作の選定や脚本のコンセプト、配役や舞台装置といったあらゆる面において、女性視聴者を獲得しようとするからか、”大河の品格”を棄てて顧みない、まことに嘆かわしい事態が進行している。「利家とまつ」や「功名が辻」のような”サラリーマンもの”が常態化し、ここ数年は「篤姫」・「天地人」・「龍馬伝」と、どれもこれもアットホームに”いい人たち”の日常を描いているだけだ。
思い起こせば。そのはしりは「おんな太閤記」(一九八一年放送)ではなかったろうか。民放テレビ局で高視聴率を獲得していた連ドラの達人(女性!)に台本を書かせ、”妻の尻に敷かれる夫”としての豊臣秀吉西田敏行が好演した、あれである。あのドラマは、べつに舞台設定を十六世紀後半にする必要はなく、現代劇の一種にすぎなかった。(「大河ドラマホームドラマ化を憂う」『トランスビュー』11、2010、pp.4-5)
大河ドラマについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100531/1275277851も。