陰陽師(メモ)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

沖浦和光『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』*1からのメモ。
大阪府和泉市旧南王子村について;


この村の名は、熊野街道九十九王子の第九番目の王子、すなわち篠田(信太)王子のすぐそばにあることからつけられた名前である。この村の起源は、古老の言い伝えによれば、すぐそばにある古い式内社である聖神社と昔からかかわりがあった。(後略)
聖神社の歴史は古く、天武三年(六七四)に、勅願によって信太首に祀らしめたのがその起源であると伝えられている。その境内に小さな古墳がある。その古墳は、すぐれた生産技術をもって、この地方の開発に貢献した信太首のものである。(p.17)
因みに「信太首」は百済系の豪族(ibid.)。
「南王子村」については、盛田嘉徳、岡本良一、森杉夫『ある被差別部落の歴史――和泉国南王子村』あり。
ある被差別部落の歴史―和泉国南王子村 (岩波新書 黄版 98)

ある被差別部落の歴史―和泉国南王子村 (岩波新書 黄版 98)

歌枕の「信太の森」は「聖神社の森」(p.18)。さらに狐の説話;

子を残して一人去って行かねばならなかった“葛の葉狐”の悲哀を描いた中世説話は、江戸時代に入って、古浄瑠璃『しのだづま』となり、さらに安倍晴明伝説と結びついて、享保十九年(一七三四)竹田出雲によって『蘆屋道満大内鑑』として劇化された。(ibid.)
何故安倍晴明が結びつくのか。その背景としての陰陽師の賤民化;

平安期に入って律令制度が実質的に解体してから、朝廷に抱えられている一握りの官人陰陽師を除いて、民間にいた下級陰陽師たちは不遇な生活を送るようになった。そして、民を惑わす呪術を使う者としてしだいに賤視されるようになった。
彼らは、古来からの道教に由来する吉凶の占や祈禱をおもな仕事にしていたが、もうひとつの仕事は、暦の発行だった。もちろん、朝廷お抱えの土御門家が承認した正規のものではなく、いわば民衆用に作成された廉価で簡便な暦だった。
ところでこの聖神社の周辺には、昔から陰陽師たちが住んでいて暦を発行していた記録が残っている。『和泉市史』には、聖神社の祭礼のさいに舞を奉納する舞太夫が住んでいた「舞村」が江戸初期からあった、そこには数人の陰陽師がいて、暦を作って売りさばいていたとある。(後略)(pp.19-20)
律令制度」の「解体」とそれに伴う「日本最初の本格的なリストラの嵐」については、以前佐藤弘夫『神国日本』を参照したことがある*2。また、律令制度の衰退が朝廷に抱えられていた下級藝能者の失職、さらには賤視を生み出したということは、既に林屋辰三郎『歌舞伎以前』で説かれていたような気がする。さらに、「太夫」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100805/1281019869を参照のこと。
神国日本 (ちくま新書)

神国日本 (ちくま新書)

歌舞伎以前 (岩波新書)

歌舞伎以前 (岩波新書)

『しのだづま』説話を産出したのは四天王寺の隷属民「安倍野童子」であるとする折口信夫(「信太妻の話」)を斥け、沖浦氏は次のようにいう;

しかし、私は、この物語の構想をふくらませて、近世版『しのだづま』物語としてそれを伝播していったのは、むしろ旧南王子村に住んで“語り”の芸能に従事していた人びとではなかったか、と考える。自分たちの故郷である「信太の森」の近くに陰陽師村があり、さらに、いつも通っている同じ街道筋に安倍晴明神社があったとなれば、「葛の葉狐」の物語の筋書きが、安倍晴明伝説と結びつくのはきわめて自然な流れであった。(p.21)
折口信夫全集 第2巻 古代研究 民俗学篇1 (中公文庫 S 4-2)

折口信夫全集 第2巻 古代研究 民俗学篇1 (中公文庫 S 4-2)

また、丹波の山奥の某被差別部落の話;

江戸時代からの言い伝えによれば、この部落には、下級陰陽師というか、昔のシャーマンみたいな老人が、年に三度ほど、時を定めてやってきたそうだ。おそらく民間陰陽師がたくさんいた播磨あたりからやってきたのであろう。
このような陰陽師は、江戸時代末期まで、まだ各地にいた。彼らは被差別部落に居住を定めていることこともあったが、自分たちだけの小さな集落をつくり、それが「宿」「算所」「院内」などと呼ばれていた。もちろんその場合も、雑賤民として卑賤視されていた。
この老人は、主として山陽・山陰道筋の山間の寒村を巡って、その途中でこの部落に立ち寄ったのである。村人たちの要望に応じて、占いも、祈禱も、御祓いもやった。寺院も神社もない小さな部落であったから、その老人は僧侶や神官の代わりにもなったし、今でいうところのケースワーカーや医者の代役もしたのである。
その老人は、明治維新の改革によって廃絶された陰陽師の“成れの果て”であったのだろう。しかし、山間の中で孤絶を強いられてきた部落の人たちにとっては、この老人がやってくることはその日常生活において、大きな意味を持っていた。
彼らは諸国を巡っていたから、さまざまな情報を知っていた。文字も満足に読めず、いろいろな学問や知識に接する機会のない民衆にとっては、いわば僧侶や教師でもあった。たとえば、ねむの木が咲いた時にはこの種を蒔けとか、こうやったら猪が畑の中に入ってこないとか、そういう言い伝えがずっとあったのだが、そういう知識は諸国漂泊の遊行者たちが教えていったのである。
漢方薬なんかも処方していた。貧乏な寒村では、もう駄目だという時以外は、とても医者にかかれない。そうすると、この病気の時はこれを飲みなさいとか、そういう薬草の処方を教えたのだ。あるいはまた、どこそこの町や村へ行けば、かくかくの仕事にありつけるとか、そういう世話までしたそうである。このようにいろいろな情報を教えていくわけだから、民衆にとっては、まことにありがたい存在であった。(pp.286-288)

(前略)その陰陽師も、毎年やってくるたびに老けていく。年をとってくると、険しい山道を辿ることが無理になってくる。そうなると、毎年定期的にやってくる時期が、だんだん遅れるのだ。
今年がおそらく最後だろうと思われる時が、そのうちにやってくる。その日は、部落のみんなが村境まで出て、峠を越えて行く老人を見送る。
村を去っていく老人は、峠の上までくると、いつもはそこで一回だけ頭を下げて、山の彼方に消えていく。
だが、これがもう最後だという時には、永久の別れというので、何回も頭を下げてから峠を越えて行った。村人たちも、その姿が見えなくなるまで手をふり続けた。(pp.268-269)