石を石として

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100407/1270572802について少し反省。「玉石混淆」とか言って、「玉」と比べて「石」を不当に差別したのではないか。「石」は石として肯定されるべきなのではないか。
そう思っていたら、小池昌代に「石」をテーマにした短編小説があったということを思い出した。「石を愛でる人」(『感光生活』、pp.67-77)。「わたし」がTV局のプロデューサーの「山形さん」に石の展覧会に誘われて、「山形さん」に〈恋愛未満〉的な感情を抱くというような筋。


趣味といってもいろいろあるが、山形さんの場合は、「石」であった。「石」を愛でることであった。そのようなひとを、一般に「愛石家」と呼ぶらしい。愛猫家とか愛妻家とか、考えてみれば、世の中には何かを愛して一家を構えるほどの人が結構いる。しかしアイセキカと聞いて、即座に石を愛するひととは、ちょっと思い浮かばなかった。(p.67)

今、わたしの机の上には、イタリアのアッシジで拾ってきた、大理石のかけらが四つある。イタリアの明るい陽に、きらきらと微妙な色の差を見せてくれた、薄紅、薄紫、ミルク色、薄茶の四つの石は、これは日本に持ち帰っても、不思議なことに色あせることがなかった。
一人でいる夜、疲れて心がざらついているようなとき、その石をてのひらのなかでころがしてみる。石とわたしは、どこまでも混ざりあわない。あくまでも石は石。わたしはわたしである。石のなかへわたしは入れず、石もわたしに、侵入してこない。その無機質で冷たい関係が、かえってわたしに、不思議な安らぎをあたえてくれる。
人間関係の疲労とは、行き交う言葉をめぐる疲労である。だから、言葉を持たない石のような冷ややかさが、その冷たいあたたかさが、とりわけ身にしみる日々があるのだ。こうしてみると、わたしだって、充分、アイセキカの一人ではないか。(pp.68-69)
感光生活 (ちくま文庫)

感光生活 (ちくま文庫)

勿論、(比喩ではなく)現実の「石」は、自分のことを「玉」だと思い・そう言い張るなんてことはしないだろう。
また、「愛石」→「愛惜」(p.67)。