グールドがしかとされて?

http://blog.tatsuru.com/2009/12/08_1204.php


「辺境」*1ネタの一環として、内田樹氏曰く、


私はほんとうに受け売りだけでご飯を食べているようなものである。
しかし、この「受け売り屋」というありようを私は日本の知識人の本態的なかたちではないかと思っているのである。
「外来の知見」に「ほほ〜」と仰天し、それを換骨奪胎加工調味して「ぱちもん」を作り、廉価で読者のみなさまに頒布する。
本業にお忙しくて、なかなかむずかしい本にまで手が回らない人々のために、『千早ぶる』の大家さんのようなリーダブルな解釈を加える人たちがそこここにいるという社会は珍しい。
私などは『千早ぶる』の解釈を専業にした「大家さん」のようなものである(「大家」さんはちゃんと店賃の取り立てとか、店子の夫婦げんかの仲裁とかしているけれど、私はそれもしていない)。
こういう業態はヨーロッパのような知的階層が堅牢に構築されている社会では存立しない。
知識人たちは知識人たちだけで「内輪のパーティ」をやっており、そこで語られることはワーキングクラスにはまったく無縁である。
知識人たちには伝える気がないし、ワーキングクラスには聞く気がない。
ミシェル・フーコーは『言葉と物』の「あとがき」に、この本は2000人程度の専門的読者を対象に書いたものだと正直に書いている。
ほんとうにそうなのだと思う。
それが「たまたま」世界的な人文系学問の必読文献になったのであって、フーコー自身には「ぜひ世界中の読者にお読みいただきたい」というような気持ちはなかった。
ヨーロッパの学問というのは「そういうもの」である。
そういうところでは「受け売り屋」や「ぱちもん」の出番はない。
私のしているような「架橋商売」が「知識人の仕事」として社会的に認知されうるのはたぶん世界で日本だけである。
この「受け売り屋」という業態はきわだって「日本的」なものであり、それゆえ「心底日本人」であるところの私のような人間がこれを天職とするのはある意味当然のことなのである。
2つの論点がごっちゃになっている感あり。ひとつはオリジナルか「受け売り」かという問題。もうひとつは「知識人」と「大衆」との断絶という問題。
前者について言えば、先進−後進関係の問題なのでは? 日本だけじゃなくて、中国にも「受け売り屋」は多いわけだし、こういう事情は(多分)韓国でもタイ*2でも変わらないのでは? というか、数十年前まで米国もそうだった。実は、スーザン・ソンタグの『反解釈』を初めて読んだとき、自分にある米国に対するコンプレックスみたいなものが落ちてしまったということがある。有名な「キャンプについてのノート」を含むこの本は基本的にはヨーロッパ大陸仏蘭西や独逸)の最先端の思想や文学を英語ユーザー向けに紹介するというものだが、米国人も俺たちと同じ田吾作じゃねえかと思ったのだった。ソンタグもそうだが、米国の知識人の世界でユダヤ人が幅を利かせたというのは、けっして〈陰謀〉などではなく、彼/彼女たちの語学力(仏蘭西語、独逸語)の力が大きかったと思う。まあ、米国もfrontier(辺境)の国か。
反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

「知識人」と「大衆」との断絶という問題については、鷲田清一先生の発言を1つの反証として挙げておく;

私は、長い間自分にエッセイを禁じていました。クリスタルのような手触りのある、硬質な隙のない文体が好きで、たとえば三宅剛一などのしっかりとした骨格のある文章が羨ましかったものです。論文という強迫観念があったせいかもしれませんが、いまのように曖昧な多義性のなかで漂っているような文章は、とても書くことができませんでした。いまでも論理を大事にしたり、オチをつけたいといった本質的な骨格は残っていると思いますが、ともあれ文体が劇的に変わってしまったといっていい。
変わった理由には、まず留学でヨーロッパに行ったことがあります。現地で実際に暮らしてみて、向こうの哲学の言葉が字面の上では難しい言葉を使っていないことにあらためて強いショックを受けたのですね。
それまでは原文、もしくは日本語独特の翻訳文を読むだけで、哲学の言葉は難しいものだという思い込みがあったものですから、デザイナーをしている高卒のオランダ人が、愛読書はレヴィナスというのを聞いて、とても驚いたりしました。
でも、フランス語でレヴィナスを読むと、そのことが納得できるのです。理屈についていく苦労は確かにありますが、「無」がrien(nothing)だったりというように、欧米の哲学は基本的に日常語を使っていて、言葉そのものは決して難しくないですから。(『教養としての「死」を考える』、pp.168-169)
教養としての「死」を考える (新書y)

教養としての「死」を考える (新書y)

また、オリヴァー・サックス*3スティーヴン・キングもといスティーヴン・ジェイ・グールドは一流の自然科学者であると同時に(大衆向けの)ベストセラー作家でもある筈。文系でいえば、NYTのコラムニストとしてのポール・クルーグマン*4。或いは、中国史家のJonathan Spence。彼の出す中国史に関する本も常にベストセラー・チャートの上位に食い込んでいる。例えば、清朝の某筆禍事件の顛末を描いた Treason by the Book*5を読んでみると、その理由はわかりやすい。中国史について全然知らない英語ユーザーは、この本を面白い政治スリラー小説のノリで読むことができる。と同時に、読者は読み終わる頃には、清朝の体制を支えた帝国のコミュニケーション・システム、或いは清朝における満族と漢族との緊張関係についてしっかりと理解しているというわけだ。ところで、内田氏はスティーヴン・ジェイ・グールドを故意に無視しているのではないか。上のエントリーの最初の方に、「メジャーリーグでは4割打者は1941年のテッド・ウィリアムスを最後に出ていない」という文がある。誰だって、これからグールドの『フルハウス――生命の全容 四割打者の絶滅と進化の逆説』を連想するじゃないか。また、ユダヤ思想の研究家としても問題で、ハンナ・アレントの主なテクストが発表されたのは、学術雑誌ではなく、New Yorkerだった。アレントは幸いにも大学のテニュアをゲットできたが、多くがユダヤ系である紐育知識人の多くは、人種差別のために大学のポストが得難く、一般読者相手の売文によって生活していた*6
Treason By The Book: Traitors, Conspirators and Guardians of an Emperor

Treason By The Book: Traitors, Conspirators and Guardians of an Emperor

フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (ハヤカワ文庫NF)

フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説 (ハヤカワ文庫NF)