西太后伝説(メモ) 

昨年の秋に突然、西太后と若い英国人が愛人関係にあったというニュースが発信されたのだが*1、何よりも何故今になって? という感の方が強い。
Sheridan Prasso The Asian Mystique*2によると、西太后が性的に淫乱であるというお話を最初に捏造したのは日本に亡命した康有為である(p.31)。康有為は宦官の李蓮英が実は男根を持っており、西太后の愛人であると書き立てた。これに飛びついたのが当時北京に駐在していた英国のジャーナリストたち。当時、康有為は中国民主化の旗手であると信じられていた――”an early twentieth-century Ahmed Chalabi”! 次に登場するのが英国人のEdmund Blackhouse(pp.32-33)。彼は言語学者で、漢語と満洲語に精通しており、康有為からのネタを発信していた北京在住のジャーナリストたちとつるんでいた。彼は1910年と1914年にも西太后に関する〈暴露本〉を出したが、1943年に出したDecadance Mandchoue*3という本では、彼が29歳の時から6年間西太后の愛人であったこと、西太后はごっくんが好きだったこと、1928年に国民党部隊によって西太后の陵墓が暴かれた時に死後20年経っても美しいままの彼女の性器に再会したことなどを書いている*4

The Asian Mystique: Dragon Ladies, Geisha Girls, and Our Fantasies of the Exotic Orient

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Edmund Blackhouseについては、既に1970年代に歴史家のHugh Trever-Roperが Hermit of Peking: The Hidden Life of Sir Edmund Backhouse*5という本を書いて、その歴史捏造を断定したことになっている。ところで、Googleをかけても、Edmund Blackhouseに関するまとまった記事は見つからず、ウィキペディアの項目さえ立てられていない。この無視のされようというのはいったいどうしたことなのか。
ヴィクトリア朝の英国は(例えばスティーヴン・マーカスの『もう一つのヴィクトリア時代』が示すように)神経症的な性的抑圧の時代であると同時に(或いはそれ故に)売春とポルノが花開いた時代であった。Sheridan Prassoは、西太后ヴィクトリア朝人のポルノグラフィックな想像力の犠牲者でもあったという(p.30)。かくして、西太后は強く・賢く・残酷で・淫乱なDragon Ladyという亜細亜人女性のステレオタイプの元型となった。西洋でも強い女が揶揄の対象となるが、それは性的なものとは結びつかない。マーガレット・サッチャーヒラリー・クリントンには(旦那の方はともかく)セックス・スキャンダルが結びつけられない(p.34)。因みに、Dragon Ladyというイメージが噴出した一例は1970年前後のビートルズ・ファンによるオノ・ヨーコ*6へのバッシングであった(pp.54-55)。
もう一つのヴィクトリア時代―性と享楽の英国裏面史 (中公文庫)

もう一つのヴィクトリア時代―性と享楽の英国裏面史 (中公文庫)

追記:Sheridan PrassoはBlackhouseと表記しているが、Backhouseが正しいようだ。ウィキペディアhttp://en.wikipedia.org/wiki/Sir_Edmund_Backhouse,_2nd_Baronet

*1:http://www.recordchina.co.jp/group/g25643.html

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070221/1172033443

*3:頽廃せる満洲

*4:Sheridan Prassoは西太后について、Sterling Seagrave Dragon Lady: The Life and Legend of the Last Empress of China(1992)という本に依拠している。

*5:See eg., http://www.antiqbook.com/boox/bookb/SEA-02904.shtml

*6:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081208/1228706920 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081209/1228790814