「積極的な意味」ではないが

Geheimagentさん*1とは別の意味で「思考」には〈効用〉がある。これについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061116/1163683146永井均氏のコメントに絡めて言及したことがある。思考は「行為の連鎖を切断する」。或いは、思考によって私たちは現実の行為の世界から撤退する。 つまり、思考に取憑かれることによって、私たちは悪事を含む行為から逃れるのである。これは思考の消極的な効用といえるだろう。これについては、取敢えず、


Hannah Arendt "Thinking And Moral Considerations: A Lecture" Social Research,. 38 (1971), 417-446


とか。
「彼の場合、酒を飲みたいとか美味いものを食べたいとか本を読みたいとかセックスしたいといった諸々の(彼にとっては)〈不純〉な欲望に邪魔されるということは(不幸なことに)なかったわけだ」と書いたけれど*2、ここでいう「邪魔」には「思考」も含まれる。http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20080610/p2に絡めて言えば、何故私が人を殺さないかといえば、端的に言って、色々な「邪魔」が入るからだろう。
加藤智大に関しては、メディアなどでさらに色々なことが言われているようだ。例えば、彼は「ロリコン」で、「スピード狂」だったという自動車部品工場の年下の同僚の証言とか*3。しかし、加藤に色々な属性を重ね塗りしていっても、それと犯行を直接結びつけることはできないだろう。あくまでも、不幸にして「邪魔」が入らなかったのが問題なのだ。加藤智大にもし突然寿司が食いたいという欲望が芽生えたとしたら、秋葉原ではなく築地に向かっていたかもしれない。しかし、現実として、それは起こらなかった。
「誰でも良かった」問題について、それが既にクリシェになっており、「ネタ」の可能性もなきしもあらずと言ったけれど、他方で考えれば、そのフレーズが例えば「月曜日は嫌い」(ブームタウン・ラッツ)などよりも言い訳としての信憑性(plausibility)を世間的に獲得していることを裏付けてもいるのだろう。
取敢えず、殺したのが/殺されたのが「私ではなかった」については、御仏に感謝すべきだろうということになる。