「物語」は回帰する?

http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html
http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html


http://ideaflow.blog26.fc2.com/blog-entry-216.htmlとかhttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080121#p1で知ったのだが。東浩紀の言説。


右翼も左翼もなんらかの物語を信じている。しかし、そういう立場は、ちょっと考えるとなかなか取れなくなる。というのも、だいたい人間の思想なんて歴史的に反復されているし、どの時代をとってもいろいろな立場があって、似たような論争が繰り返されていることがすぐわかるからだ。

したがって、あるていど頭のいいひとは、特定の物語を信じず、諸物語の「均衡」を目指すことになる。これは保守の立場に近づく(ちなみに右翼と保守は違う)。ぼくが「ポストモダン」とか呼んでいるのもこの立場だ。ぼくのポストモダン観はそういう意味ではきわめて保守主義的だ。

ところで、そういう「均衡」を目指す立場は、原理的に伝統を尊重することになる。なぜかといえば、なにも特定の物語を信じなくても、とりあえず「この社会」がいままで続いてきたという事実性だけは脱イデオロギー的に確保できるからだ。というか、なにも物語を信じないのであれば、それぐらいしか最終的によりどころがない。
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細部に異論はあるが、私が考えていることとも共通するところがある*1

おそらく、ぼくが採りたいのは、イデオロギーなき革新というか、物語なき進歩主義の立場なのだ。つまり、世の中は変わっていると考え、その変化を基本的に肯定するが、しかし特定の物語は信じず、「諸物語の均衡」にこそ支点を見出すという立場だ。

しかし、そんな立場は可能なのか。どうも難しい。そこで考えられたのが、ニヒル唯物論というか、技術決定主義というか、つまり、革新や進歩は下部構造によって勝手に強いられているのだから、もうあと人間はやることないんじゃないか、みたいな話なんだろう。どうも、ここ数年、ぼくがリバタリアニズムがどうとか、ポストモダンの二層構造がどうとか言っていたことの根源は、そういうことにあるような気がする。

イデオロギーなき革新」も「イデオロギー」であり、「物語なき進歩主義」もまた「物語」だろう。それを主張することはそれ自体、「諸物語」の抗争なり協調なりに(「諸物語」の一つとして)コミットするということになる。そうでなければ、「諸物語」の抗争から超越した場所を確保し、それらが「均衡」を達成するよう管理するつもりか。まあ、多くの人があんなデブに管理されたくないよと思うのでは? また、「均衡」を達成するように管理というか調整を行うとしても、それを何らかの「イデオロギー」(「物語」)を有せず達成するのは難しいのではないかとも思う。

ぼくは「政治」という言葉は、個々人の立場表明を意味するのではなく、社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動を広く意味するべきだと考える。だとすれば、それは必然的に、物語なき進歩主義、というか物語なき改革主義の立場になるはずだ。
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という。さらに、

友と敵を作って、そのうえで他者を尊重したりなんだりする。それはとても「人間的」であり、高級な話ではある。実際、それはある範囲ではますますやるべきだ。たとえばブログとか。ぼくはそう思っている。この点を誤解してほしくない。

しかし、政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理にあるのであれば、その過程が必ずしもそういう人間的で高級なコミュニケーションに結びつく必要はない。ポリシーなき政治、討議なき政治だってありうるはずだ。アーレントの言葉で言えば、政治を、「活動」の場ではなく、「労働」(=消費)の場に落とすこともできるはずだ。つまり、無意識で工学的な意志決定の場所に(なお、「よりよい」という価値設定にこそが問題で、その部分にこそ実際は功利主義イデオロギーが入りこんでいるだからだめだ、的な反論が容易に思いつくが、それについてはここで再反論するのはやめておく)。

これはそう目新しいことではないだろう。少なくとも近代においては「政治」はそのように理解され、諸「イデオロギー」の抗争もそれを前提に行われていた。だからこそ、ハンナおばさんは異議申し立てをしたわけだ*2
「政治の本来の目的が共通資源のよりよい管理」だとしても、そこでは何らかの優先順位をつける必要がある。それは「共通資源」は無限ではないだろうし、時間的な制約もある(一度に全てのことはできない)だろうからである。そうなれば、自らの利害を(さらには権利を)侵害されたと感じる人も出てくるだろう。そういう人を説得したり、反論したりするためには規範が必要なのであり、つまりは「物語」を語らざるをえないということになる。そうでなければ、暴力による強制しかないだろう(勿論、暴力が手段として機能するためにもそれなりの「物語」が必要だということになるのだが)。ここら辺に関しては、大庭健『善と悪』の最後の方の部分がヒントになるのだが、ともかくかくして「物語」は回帰してくることになる。
善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

善と悪―倫理学への招待 (岩波新書)

さて、「特定の物語を信じず」というような表現が使われている。問題は信じる/信じない以前にあるのではないか。或る振る舞いをするということは或る「物語」を(信じる/信じない以前に)、その振る舞いの条件として、またその振る舞いにおいて生きてしまうことなのではないか。にも拘わらず、自らの「物語」の綻び、「物語」に入り込んだ異質な「物語」を隠蔽することもなく否定することもなく、「物語」を保持し続けることなのではないか。

ところで、「動物化」云々というのがコジェーヴに由来しているのは明らかなのだが、東的な展開では、コジェーヴが「動物化」ではない途として挙げていた、江戸時代の日本にインスパイアされた「スノビズム」というのがスルーされているのは何故なのだろうかということは常々の疑問なり。

*1:Cf. eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080129/1201627245

*2:これについては、取敢えず、『人間の条件』II章6節を参照されたい。

The Human Condition

The Human Condition