右翼/左翼(メモ)

http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/blog/index.php?no=r260


『重層的非決定』というblog。「たとえばモーニング娘。アルチュセールを*同時に*語る、ということ」とある。でも、「重層的決定」ならぬ『重層的非決定』は吉本隆明だし、というのはともかく、曰く、


「右翼」「左翼」を論じる際にはまずは経済的な立場と思想的な立場(イデオロギー)はとりあえず切り離しておいた方がすっきりする。そしてこの対談の趣旨からしてもここで問題にしているのはイデオロギーとしての「右翼」だろう。イデオロギーと経済的な土台とは整合しない方が普通である。それがイデオロギーイデオロギーたる所以だ。

こうしていったん切り離した上でイデオロギーとしての「右翼」「左翼」を考えれば、私は「一君」ではなく、「共同体」をキータームに据えるのがよいと思う。閉ざされた共同体の価値を尊重し、そのためなら外部の価値を否定・攻撃することも厭わないのが「右翼」、ある理性的・合理的な価値を措定し、それに従って共同体も編成されるべきだと考えるのが「左翼」。繰り返すが、あくまで「イデオロギー」として、である。経済的土台においては両者はむしろ逆立している。何となればイデオロギーとは経済的土台の積み残しを保管するべきものだからである。

今の日本の「ウヨ」とはまさにこのイデオロギーとしての右翼思想を見事に体現している。経済的なアメリカ的グローバリズムの「被害者」たちが自らの属する(と想像する)共同体的価値を死守しようとして排外主義に走る。もちろんかれらの世代の文化的共同体とは明治以来受け継がれてきた脱亜入欧的価値観に彩られたものである。

これは「右翼」「左翼」というよりも保守主義進歩主義の対立に近いような感じがする*1。ただ、保守主義が「外部の価値を否定・攻撃すること」に結びつく必然性はないだろう。保守主義と(例えば攘夷思想のような)復古主義或いは原理主義は違う。保守主義が忌み嫌うのは何よりも(ここで「左翼」の特徴として述べられている)「理性的・合理的な価値を措定し、それに従って共同体も編成されるべきだと考える」ことだろう。保守主義の基本は淘汰に耐えて生き残っているもの(伝統)には価値があるということで、それを進歩主義者が「理性的・合理的な価値」という抽象的なものの名の下に、目的意識的に改変しようとすることが我慢できないということになる。保守主義がしようとすることは外部環境の変化を何とかやりすごすことであり、外部環境の変化と伝統の保全との折り合いをつけるためのマイナーな修理ということになる。それでも変わってしまうなら、まあ仕方がない。
また、(熱湯浴のような)「今の日本の「ウヨ」」について、「経済的なアメリカ的グローバリズムの「被害者」たちが自らの属する(と想像する)共同体的価値を死守しようとして排外主義に走る」というのはどうか。それよりも伝統の空洞化、或いは文化資本の貧困が問題なのではないだろうか*2。その元凶は必ずしも「アメリカ的グローバリズム」とは限らない。ともかく、今や伝統にコミットメントするためにはかなりの文化資本が(序でに経済的な資本も)必要になっているのであり、それができないからこそ、ネガティヴな仕方で〈想像の共同体〉への帰属を確認し・アイデンティティを保持しようとする*3。伝統を「死守」したいなら、ネットに書き込むよりも『源氏』や『新古今』を読んでろということになるのだが、それが困難だということになるのだろう。