歴史学の危機――Francois Furet

歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学 (NEW HISTORY)

『歴史・文化・表象』*1からの抜書き。
Andre Burguiere「ヨーロッパ社会研究における人類学と歴史学」へのフランソワ・フュレのコメント。
フュレによれば、「私たちが、伝統的歴史学と呼んでいる知の形態」は、「進化主義と単線的発展図式の危機」、「ネーション発生史としての歴史の危機」、「出来事としての歴史の危機」を通じて「解体」した(p.141)。その結果、「歴史学的言説」と「人類学的言説」との区別が揺らぐことになる(p.139)。曰く、


第一には、歴史学も人類学も一八世紀末から一九世紀全般を通じて、進化論的な展望の下につくり上げられてきたのですが、いまや進化主義の危機が、両者を共通に襲っているという事実です。一八世紀末から一九世紀の間、人類学は空間を記述し、歴史学は時間を記述してきたということになりますが、実際には、空間のうちに探究してきたものは、時間についての見方に他なりません。空間のうちに散在しているいわゆる未開社会は、私たち人類を始原のイメージへと送り届けていたのです。異文化への関心も結局のところ時間への視点だったのでして、この点で、歴史学は、それが時間に関する知、「総合研究センター」Centre de syntheseのよく知られている表現をかりれば、「人類の進化」を果たしえていたのです。しかし、進化主義の危機は、人類学を解体したのと同時に、歴史学をも解体してしまいました。異文化がもはや人類史の始原のうつし身ではなくなり、単にわれわれの社会との不連続を示すにすぎなくなる時、歴史学は、その支配機能、統合機能を終えるでしょう。(ibid.)
「この進化主義の最高の帰結がネーションであったこと」(ibid.);

歴史学は、一九世紀の間を通じて、恐らくはもっと以前から、基本的には、ネーションの起源についてのほとんど妄想的といってよい探究として、発展してきました。歴史学は、ネーションの、ナショナルな現象の、発生学でありましたし、実験科学の例にならって証拠物件としての価値を持つとみなされた文書史料にもっぱら立脚する学問だったのです。(略)われわれフランス人は、ネーションを対象とする歴史であると同時にもっぱら文書史料に依拠する歴史という、二重の形で強力につくりあげられてきた歴史学の、直系の後継者だったのです。(pp.139-140)
さらに、「出来事の概念の危機」(p.140)或いは「出来事の民主化」(p.140);

出来事は、卓絶した権威を付与されている歴史的事実でありました。時間の流れ――その意味するところは、理性の勝利であったり、デモクラシーや、共和政や、進歩の到来であったり、さまざまでありますが――いずれにしても、この時間の流れを大きく区切るために考えだされた特権的な標識、つまりは時間の里程標を担うものとして、出来事は卓絶した権威を付与されていたのです。ところが、進化主義の危機は、歴史学の基本的な素材としての出来事の危機を惹き起こしてしまいました。(略)歴史家にとっては、いまやすべてが出来事となってしまいました。私たちは、出来事が与えられえたものではなく、つくり出されたものだということを、よく承知しています。(pp.140-141)
最初の「進化主義」云々について言えば、それは通俗的な進化論、進化と進歩を同一視する「進化主義」。進化論の理説をそのまま受け取れば、進歩主義などではなく、或る種の〈保守主義〉が導かれるだろう*2。つまり、現在存在しているものは全て、存在しているというそのことによって、過酷な淘汰を耐えた〈勝ち組〉として肯定される筈だからである。
また、「出来事の民主化」について、ビュルギエールは、アナール学派が国家中心の歴史学に対して、「一種のポピュリズム」を対置したと言っている;

強者の歴史と並べて、弱者の歴史にも市民権を与えようとの意志がそれです。先祖代々受け継いできたしぐさの体系や一見不変のように見える農村景観のなかに生きながら、開墾技術に手を加え改良しようとする農民、このような名も知れぬ農民も、戦いに勝利をもたらす将軍と同等に歴史の重要な担い手なのだ、というわけです。(p.120)