或る一貫性をこそ

昨年の暮辺りから、「実名暴露」問題というのが喧しいようである。
このことを巡って、いちばんしっくりと来たのは、


チキさんはトラカレのドメインもとってますし、chiki というハンドル(紙媒体では荻上チキ)で一貫して活動をしているわけで、あなたがここで問題としている意味では匿名ではありません。もしチキさんが「荻上チキ」という名前との関わりを捨てたら、言論活動上それはかなりの損害を伴いますよ。問題を起こしては次々とハンドルを変えブログ名を変え書く場所を転々としている誰かと一緒にしないように。
http://d.hatena.ne.jp/macska/20071219/p1#c1198212200
という発言であった。
「実名」か「匿名」かというのは一種の擬似問題なのだろうと思う。というか、こういうことというのは黒木玄氏の掲示板のローカル・ルールのグローバル化ということで、既に解決済みであると思っていたのだが。必要としているのは、言論空間において責任を示す名がシニフィアンとして一貫してあるということなのだ。その名=シニフィアンは反復されることによってシニフィエを溜め込んでいくともいえるのだが、その名がハンドル・ネームだろうが実名(戸籍名)だろうがペン・ネームだろうが、それは殆ど重要ではない。1つの名前が一貫して反復されることが重要なのだろうと思う。また、こtれは野原燐氏が問題にする「「名無し」主義」*1とは同列に語ることはできないだろう。さらに深刻なのは、このような〈ホームレス〉な言葉、また「問題を起こしては次々とハンドルを変えブログ名を変え書く場所を転々として」という自ら〈ホームレス〉になろうとする言葉にどう対処するのかということの方だろう。
ところで、「実名」といえば、http://d.hatena.ne.jp/kechack/20080117/p1で言及されていた「田中宏和」という名。『世に倦む日日*2というblogをやっているようだが、この「田中宏和」が「実名」なのかペン・ネームなのかは知らないし、上述したように重要でもない。けれども、「田中宏和」ではなく、「H. Tanaka」として、また〈PDFミサイル〉なる珍兵器(笑)の開発者として記憶されるべきであろう。