構築から構成へ(メモ)


身体を構築主義で語ると、どうも不毛な言い争いにしかならないような気がして仕方ない。理屈は理解できてしまうし、結構納得もさせられてしまうので、どこかで必ず反論に疲れて断念するんだけれども、じゃあ、この痒みを痒みと認識しなければ掻かないのか、とか、発熱したときにそれを異常だと認識しなければ身体はだるくないのか、とか、クスリ飲んだ後の気持悪さを、嘔吐感だと認識しなければ吐かないのか、とか考えると、そんなことはないだろう、と経験的には確信している。その極めて身体的で感覚的な個人的経験はどうにも語り切れないので、結局納得はしてもらえないんだろうなぁ。で、その辺りが、患者たちが学者は所詮学者だ、とか言い放ってしまうことと無関係ではなかろう、と。
http://d.hatena.ne.jp/rei-kotonoha/20070920/1190298378
ここで語られているのは先ずは、私的経験を他者にコミュニケートし・共有することの困難ということだろう。その困難は(構築主義と対立する)本質主義によって解消できるのか。多分、できないだろう。さらに問題なのはこの人にとって「構築主義」とは何を意味しているのかということだ。「構築主義」に「心理主義に対するときの不快感と同じものを感じる」という。「構築主義」は例えば「クスリ飲んだ後の気持悪さを、嘔吐感だと認識しなければ吐かない」と本当に言っているのか。ここでエスノメソドロジーを広義の「構築主義」の中に無理矢理押し籠めてしまえば、「そんなの気の迷い」というのが社会的事実として存立してしまうその現場に立ち会おうとしているとも言えるだろう。ポルナーには、”The very Coinage of Your Brain”という論文もあるし。
エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

エスノメソドロジー―社会学的思考の解体

話を戻せば、「構築」する主体は誰かという問題になるのだろうけど、social constructionという場合、「構築」は(個的・集合的な)主体に帰属可能なものなのか。さらにいえば、「構築(construction)」という言葉が本当に適切なのかどうか、もし構成(constitution)だったら、この人はどう感じるのだろうか。「構築主義」が(能動性と対立するものとしてではないような*1)〈受動性〉*2の次元に目を向けることが必要であることはたしかだ。「構築主義」は現象学的思惟から身を引き離してはならないということになる。
また、これはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070914/1189790820にも関連する。