ここで語られているのは先ずは、私的経験を他者にコミュニケートし・共有することの困難ということだろう。その困難は(構築主義と対立する)本質主義によって解消できるのか。多分、できないだろう。さらに問題なのはこの人にとって「構築主義」とは何を意味しているのかということだ。「構築主義」に「心理主義に対するときの不快感と同じものを感じる」という。「構築主義」は例えば「クスリ飲んだ後の気持悪さを、嘔吐感だと認識しなければ吐かない」と本当に言っているのか。ここでエスノメソドロジーを広義の「構築主義」の中に無理矢理押し籠めてしまえば、「そんなの気の迷い」というのが社会的事実として存立してしまうその現場に立ち会おうとしているとも言えるだろう。ポルナーには、”The very Coinage of Your Brain”という論文もあるし。
身体を構築主義で語ると、どうも不毛な言い争いにしかならないような気がして仕方ない。理屈は理解できてしまうし、結構納得もさせられてしまうので、どこかで必ず反論に疲れて断念するんだけれども、じゃあ、この痒みを痒みと認識しなければ掻かないのか、とか、発熱したときにそれを異常だと認識しなければ身体はだるくないのか、とか、クスリ飲んだ後の気持悪さを、嘔吐感だと認識しなければ吐かないのか、とか考えると、そんなことはないだろう、と経験的には確信している。その極めて身体的で感覚的な個人的経験はどうにも語り切れないので、結局納得はしてもらえないんだろうなぁ。で、その辺りが、患者たちが学者は所詮学者だ、とか言い放ってしまうことと無関係ではなかろう、と。
http://d.hatena.ne.jp/rei-kotonoha/20070920/1190298378

- 作者: ハロルド・ガーフィンケル,山田富秋
- 出版社/メーカー: せりか書房
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また、これはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070914/1189790820にも関連する。
*1:constructingをconstructedに置き換えれば済む問題ではない。
*2:受動性に関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060221/1140547241、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060315/1142441815、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060411/1144754380、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060728/1154089615、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070321/1174455126、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070620/1182357632、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070822/1187751553、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070904/1188914819も参照いただきたい。