「水伝」と言語学

http://d.hatena.ne.jp/dlit/20070521/1179748496


「水伝」への「言語学的な視点からの反論」。笑ってしまうくらい面白い。「水伝」をネタにした「言語学的な視点」の入門という趣がある。考えてみれば、初等・中等教育では英語や日本語(国語)は教えるかも知れないが、〈言語〉そのものは教えない。これを教材として使えば、一石二鳥なのではないかとも思う。
「水伝」に関して、以前、


もしかして、「水伝」の提唱者やそのフォロワーたちにはある種のアニミズムへの憧れがあって、自然のスピリチュアルな尊厳を恢復させたいという願いがあるのかも知れない。しかし、実際の効果は自然(水)の人間的主観性への服従であって、そこでは自然の超越性は決定的に損なわれている。さらにいえば、この人たちは決して水に出会うことはない。この人たちが出会うのは水に投影された自分でしかないからだ。うっかり忘れていたが、何処へ行っても自己にしか出会わないというのは近代の主要な実存的境位ではある。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061118/1163838464
と書いたのを再録しておく。
ところで、「水」ならぬ「風」も(グレッグ・レイクが歌っているように)語らない;

http://www.lyricsdownload.com/king-crimson-i-talk-to-the-wind-lyrics.html

In the Court of the Crimson King

In the Court of the Crimson King

因みに、この「風に語りて」の作詞はピート・シンフィールド。