引用−−大貫妙子、池田晶子

散文散歩 (角川文庫)

散文散歩 (角川文庫)

大貫妙子『散文散歩』*1から;


二番目によく聞かれることは、歌詞は「じっさいにあったことですか」というものだ。いちいちほんとのことなんか書いていたら、今まで何百人と恋をしたり別れたりしたことになるのだろう。ひとつの恋愛は何百という歌を作り出すことができるほど価値があるものなのだ。けれど私はみんなが喜びそうな物語を捏造するのが、とても下手だと思う。あまり書く気にならないのも、そういったものにあまり興味がないからかもしれない。小説も映画もストーリーは思い出せない。焼きついているのは自分自身と呼応する、ストーリーから切り取られたある部分だ(p.120)。
因みに、「山笑う季節」(p.55)という表現、なかなかいい。

さて、中央公論新社から「創業120周年記念出版」ということで、「哲学の歴史」というシリーズが刊行され始めたらしい。その内容見本に、木田元橋爪大三郎池田晶子、今道友信という人々が「刊行に寄せて」の文章を書いている。その中で、 人生の最後近くに書かれたであろう池田晶子*2の「言語に対する深い信頼」という文章に曰く、


(我々は)なぜ思惟するのか。
というこの問い自体が、答えの不在を示している。「なぜ」はなぜ存在するのか。「なぜか」この世に存在した我々は、なぜかこの語とともにあり、したがって一切を問う、問い始める、問わざるを得ない。しかし、「問う」とは、それ自体、答えの存在を知っているのでなければ不可能な行為ではなかったのか。思惟の逆説、知らないと知るゆえに問う、問うて知る、知らないというこのことを、かくて繰返し終わりなき(我々としての)思惟の歴史。しかし、思惟としての我々にとって、こうである以外に、どのようであり得よう!(p.5)