少女的なもの、そしてジェンダー

「私が「尾崎豊」に出逢わなかったのは、多分前に書いたように世代の問題というのがあるとは思うのだけれど、一つには、ずっと〈少年〉的なものよりも〈少女〉的なものに惹かれ続けていたということもあるのかも知れない」*1と書いた。
ところで、


 山崎まどか少女小説における続編の法則:あるいは金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』について」*2


金井美恵子先生の名前に釣られて読んでみた。一応『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』についての文章だが、そのプレテクストとしての「少女小説」論が詳しい。少女小説を定義して曰く、


  文才があって一風変わったモノの考え方をして、いわゆる美人ではないけれど精神の高揚が常に外面に発露するカタチで光り輝いていて、でももう少し大きくなったら「個性派美人」と呼ばれるような女子が、その個性ゆえに小さなコミュニティの中でどうしようもなく起こる摩擦と闘いながら青春期を過ごしていく有様を、贅沢ではないけれどそこはアイデア勝負といったお洋服だのお食事だのインテリアだのといった楽しい風俗を、微に渡り細に渡り描写した背景のもとに描いたストーリー。なんだか一気だけど乱暴に少女小説を定義するとこんな感じ。

 もちろん「将来はひょっとして配偶者?」な年上で実力者の男性理解者とか、肉親として彼女を愛してはいるのだけれど、どうしても主人公の内面世界が理解できないでつい辛く当たってしまう近親者とか、金髪碧眼お金持ちで派手好きのカタキ役とか、定番の登場人物も配置して。

金井美恵子先生の『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』は取り敢えず『小春日和』の「続編」に当たる。『小春日和』はどんな小説かというと、

『小春日和』は八十年代も末になって出てきた少女小説でした。主人公は一風変わったモノの考え方をして、(多分)文才があり、(多分)美しくてチャーミングな少女です。彼女はスモールタウンから都会の大学に(一浪して)入学するために、作家である伯母さん(主人公の崇拝の的である進歩的な思想の持ち主で独立した女性、のはずなのだけれど)の家に下宿することになります。

 彼女の両親は既に離婚していて父親はゲイの恋人と暮らしています。少女を取り巻くコミュニティが時代の変化により寛容になった、なんてことはまずありませんが、大きな変化はありました。少女小説であるにも関わらず、主人公の少女である桃子ちゃんはもう、摩擦を起こすなんてことは面倒くさくてイヤだったんですから。

 闘争が面倒な少女はもちろん恋愛なんてもっと面倒くさく、「日常生活ながら波瀾万丈」という要素を失った少女小説にはタイトルにある通りのやたらと穏やかな生活が訪れました。そして変わり者の少女にはもう、「理解者」なんて必要ありませんでした。何せ、ペダンティックで磯野カツオのような言葉使いをする花子ちゃんという「もっと変わり者の友達」がいたので-。

というもので、その何処が「少女小説」かというと、

 そんなわけで、『小春日和』におけるクラシカルな「少女小説」の要素となると、日常風俗のやたらと細かい描写ということになるのですが、ここはやたらと拡大されています。お洋服やごはん以上に本や映画やそれにまつわる会話がクローズ・アップされ、顕在化はしていないにも関わらず、ミニシアターの映画や馬鹿げたモノの分かっていない評論を肴に、喫茶店で店員に追い出されるまでわんわんと喋れる少女たちが沢山育った我が国では「これって私たちのこと?」旋風を一部で起こすことになったわけです。多分。
ということになる。
『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』はどうなのかというと、

桃子ちゃんは「作家」になんかなりませんでした。恋愛はしたかもしれないけれどドラマはなく、従って結婚もありませんでした。桃子ちゃんは何者にもならなかったのです。大学院浪人した後横滑りにフリーター生活に突入して、モラトリアムというよりは今の生活を全面肯定であくびしながら相変わらず穏やかな日々を送っているのです。

 花子ちゃんは(大方の読者の予想通り)編集者になって一旦は共同生活をしていたアパートから離れたものの、また舞い戻ってきました。伯母さんも相変わらずです。もう一人、アパートに住んでいるおばさんも合わせて、四人はぺちゃくちゃと援助交際について一章半も、本当にただぺちゃくちゃとくっちゃべっているだけなのです。

 母親の再婚と弟の結婚という外側のドラマを何となくやり過ごしつつも、勤めている塾がなくなるらしいのでどうしよっかなーと思っている桃子ちゃんは、身の振り方を決めようとしているわけではなく、未来は空白なままです。

「少女」的なものというのは、独特な時間感覚に関わっているようだ。少なくとも、或る1つのテロスによって強力に構造化された時間ではない。ここで、時間に対する主要な態度は「何となくやり過ご」すということになろう。
さて、この時間性は「少女」的であるといえるにしても、それは女性というジェンダーに限定されるわけでもない。実際、山崎さんもいしいひさいちの『バイトくん』に言及している;

 『彼女(たち)について私が知っている二、三の事柄』の幸福感は、いしいひさいちのライフワーク『バイトくん』によく似ています。風呂なし四畳半万年床で日なったぼっこしながら暮らしている万年貧乏大学生を主人公に続くこのシリーズの単行本のオビに、「こんな風に日に当たりながら沢山の年月を過ごしてきたけれど、いつまでこのままでいられるんだろうなあ」といった趣旨のアオリを見た時には不覚にも涙が出そうになったものです。
また、こうした時間性を例えば保坂和志の小説*3に感じることも困難ではないだろう。「女性というジェンダーに限定されるわけでもない」というよりは、いしいひさいち的な世界の男性、保坂和志的な世界における男性、或いはそれらに心惹かれる男性というのは、その何分の一かは既に女性というジェンダーを生きてしまっているといえるのかも知れない。或いは、「多分女子は、えんえんと終わらないお茶会を開くことによって割といつでも外側の時間を止められるように出来ている生き物です」ともいわれている。とすれば、「少女」であること(になること)というのは、技術(スキル)の習得の問題であるといえるのかもしれない。
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