戦後日本理科教育――左巻健男

毎日新聞』に掲載された左巻健男氏のテクスト*1から。
先ずは、学校教育の現場への「ニセ科学」の浸透が語られ、その「根底」として「科学リテラシー(科学を理解し判断する素養)の欠如」が指摘される。さらに、その「欠如」の背景として、戦後の理科教育の歩みが語られる;


日本の理科教育は戦後、時計の振り子のように両極端に振れてきた。終戦直後は暮らしに身近なテーマを横断的に学ぶ「生活単元学習」が導入されたが、学力低下の批判にさらされ、テーマごとに学んでいく「系統学習」に切り替わった。

 ところが「系統学習」は80年代以降のゆとり教育で詰め込み主義と批判され、「全員が分かることしか教えない」方針に変わった。残ったのは断片的な知識の寄せ集めだ。これでは自然を理解する力や科学的な判断力は育たない。例えば小4では、満月や三日月など月の満ち欠けを三つほど教えるが、その仕組みは教えない。次に天文を学ぶのは中3だ。

 科学を学ぶことは山登りのようなものだ。少々苦労しても頂上まで登れば、今まで見てきた断片的なシーンが全体として見渡せる。ところが今の理科教育は「大変だから」と登山をやめて、ふもとをあわただしく散策するだけ。部分同士のつながりが分からないから暗記することになり、もっとも大切な「理解と納得」ができない。

以下、その論旨とは関係ないことを書く。「「全員が分かることしか教えない」方針」ということだけど、ここでいう「全員」とは文字通りのことではないだろう。「全員」を文字通りに取ってしまうと、例えば1万人のうち1人でも分からない者がいれば、「全員」ではなくなる。或いは、「全員が分かる」筈であるという規範的な期待なのだろう。しかし、実際は(文字通りの意味での)「全員が分かる」のではなく、正確な比率など知らないが、〈多くの〉といった感じになるのだろう。一定の割合が「分かる」のならまあいいかと。「分かる」のが期待よりも少なければ、或いは「分かる」のが殆どだとしても、そうではない残余にフォーカスした場合、「全員が分かる」というのが規範的な期待である以上、認知的不協和(cognitive dissonance)が生起する。この不協和をいかにして緩和するのか。多分、その帰結は残虐なことになるだろう。分からなかった者を(何らかの理由を付けて)「全員」から排除すること。それに対して、「全員」が分かることはありえない殆どの奴は分からなくて当然だを前提とすることは、はるかに気が楽だし、残虐でもないだろう。分からなくてもああそうかだし、分かった場合にはその喜びは一入ではないからだ。