生産条件から生産手段へ


実のところ、今日では、気前がよくないと金持ちになれないのだ。

かつては、そうではなかった。例えば農業では、収穫が持っている土地にほぼ比例する。豊作も凶作もあるが、ある土地の生産量が何桁も変わるということはありえない。こうした状況下で収益を増やすには、なるべく肥沃な土地をなるべく多く所有し、小作人には叛乱しない程度の小作料を与えるというのが望ましい。

我々が知っている「強欲」は、こういう時代に形成された観念だ。

しかし、今や収穫は所有している財産に昔ほどきれいに比例しない。もちろん多く所有している人はそうでない人よりも依然優位ではあるが、その優位性はかつてほど絶対ではない。こうなってくると、「どれだけ土地を所有しているか」よりも「どれだけ多くの味方を持っているか」の方が、収益に対する影響力がずっと大きくなる。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50588349.html

「農業では、収穫が持っている土地にほぼ比例する」というけれど、実は「農業」において「収穫」は人間の数、或いは人力を代替する機械の力に比例する。小田亮氏がいうように、「農業」の発明(発見?)によって何が変わったかといえば、狩猟採集社会においてはたんに生産条件でしかなかった大地が生産手段になったということである。農地を農地として存立させるためには、野獣の侵入を防がなければならないし、先ず何よりも耕さなければならない。耕さずにほったらかしにしていれば、直ぐにでも曠野(自然)に戻ってしまう。さらに、油断していれば余所者に侵略されてもしまう。これらをするのは人間の労働力である。ここから、子どもの多寡が「収穫」の多寡を左右するようになる。子どもの多寡は何によって決まるかといえば、女性の多寡によって決まる。これが財としての女の交換という、フェミニストには評判がチョー悪いレヴィ=ストロース先生の親族理論の前提だということになる。また、農業社会と直系家族制度が結びつくのは、農地をちゃんとした生産手段として仕立て・維持するためには、そこに労働力を1人の人間の一生以上の時間投入しなければならなかったということと関係があるだろう。