「将来の夢」は?という質問が残酷な質問でありうる社会

   内藤朝雄
   「すぐに教育チケット制を導入せよ」
   http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20060103


 読んで、足立区は日本のサウス・ブロンクスかよ、という不躾かつ月並みなことが思い浮かんでしまった。勿論、データの正確さなどは精査する必要はあるだろうが、〈小泉的〉を積極的・消極的に信任した人々はどう思っているのか、それがいちばん知りたいところだ。世界的にはこれが当たり前であって、日本もやっと〈グローバル・スタンダード〉に追いついたのかとお慶びなのであろうか。
 ところで、引用されている『朝日』の記事に、足立区の話だが、


 同区内には受給率が7割に達した小学校もある。この学校で6年生を担任する男性教員は、鉛筆の束と消しゴム、白紙の紙を持参して授業を始める。クラスに数人いるノートや鉛筆を持って来ない児童に渡すためだ。

 卒業文集を制作するため、クラスの児童に「将来の夢」を作文させようとしたが、3分の1の子が何も書けなかった。「自分が成長してどんな大人になりたいのか、イメージできない」のだという。

という行があるが、「将来の夢」は?なんて、誰もが子どもに対して、何気なく(勿論悪意などなしに)しそうな質問ではある。それが残酷な質問であるという可能性もあるのだということを改めて思う。
 内藤氏の「教育チケット制」という提案は勿論傾聴されるべきであるが、ここでは別の方向の問いかけをしてみたい。人間は富んでいようが貧しかろうが、常に〈生の仕方〉としての文化を生み出してきたし、生み出している。それは直接的な〈生き残る術〉だけでなく、宗教や藝術や思想なども含む。では、〈貧しさ〉の中で、例えば足立区の「42.5%」の子どもたちは将来どのような文化を生み出しいていくのか。アフリカ系アメリカ人の〈貧しさ〉の中からブルーズが生まれたように、何が生み出されてくるのか。件の数字を取り敢えず真に受けるかぎり、そこから予測されるのは、文化資本の、さらにはリテラシーの格差の拡大であり、その世代を越えての再生産である。しかし、それは価値のない問いではない。ただ、「将来の夢」は?と同様に、残酷な問いではあろうが。